一度信じて救われた人が、その救いを失う可能性はありますか。

キリストを信じて救われた人が、その救いを失う可能性はあるでしょうか。ヘブル人への手紙 6章1~6節は、その可能性について教えているように読めますが、これをどう理解すればよいでしょうか。

確かにヘブル人への手紙6:1~6は、新約聖書の中でも難解な聖句のひとつです。特に、

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」(4~6節a)

という部分が問題です。実は、この質問は救済論(救いの教理)の本質に迫るものであり、これに関してどういう確信を持つかで、クリスチャン生活は大きく変わります。

この聖句の解釈を始める前に、いくつかの前提を考えておく必要があります。

(1)新約聖書の圧倒的に多くの箇所は、救いは永遠であることを教えています。これを神学用語で「永遠の保証」、「聖徒の堅忍」、「聖徒の保護」などと言います。参照聖句としては、ヨハネの福音書10:29、ローマ人への手紙4:21、8:31、38~39、14:4、エペソ人への手紙1:19~21、3:20、ピリピ人への手紙3:21、ヘブル人への手紙7:25などが上げられます(以上は、ほんの一例です)。

(2)難解な聖句を解釈するときは、文脈に十分な注意を払う必要があります。また、明確に教えられている教理と調和するように解釈しなければなりません。そうでないと、聖書は矛盾した書となってしまいます。

以上のことを前提に、ヘブル人への手紙6:1~6を解釈すると、次のようになります。

(1)この箇所は、すでに救いを得た信者に向かって語られているもので、テーマは霊的成熟です。

(2)彼らは、霊的に成熟する努力を怠っていました。もっと言うと、彼らはユダヤ人信者であり、すでに恵みと信仰による救いを受けているにもかかわらず、律法(業)による救いに回帰しようとしている人たちです。

(3)ここに書かれた警告は、霊的成熟を目指して前進せよという勧めです。救いを失った人が実際に出ているということではありません。

(4)もしこの警告に耳を傾けないなら、神の厳しい訓練を受けることになります。そして、神の訓練の中には、肉体的死も含まれます。

「しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます」(8節)

とありますが、ここで語られているのは、霊的死ではなく、肉体的死です。

一度救われた人は、永遠に救われています。だからと言って、自由気ままに生きていいということではありません。もしそうするなら、神の訓練を受けることになります。キリストを信じる信仰によって救われた私たちは、内住の聖霊に導かれ、安心して地上生涯を全うすることができます。

(答えた人:牧師 中川健一)