レシピ3 「謙遜」の法則

謙遜になることを躊躇する理由

すこし前(2005年3月)の話になりますが、筆者が主催する『ハーベスト・タイム』というテレビ番組を制作・放映している団体が、ロサンゼルスで視聴者大会を開催したことがありました。
その大会には音楽ゲストとして、黒人男性のゴスペルシンガーを招いていました。実際に聴いてみると、声量豊かで見事な歌唱力です。彼こそトップアーティストと呼ぶにふさわしい人物です。
しかし、その音楽的才能よりもさらに感動させられたのは、彼の人格でした。まさに彼は、「謙遜」という言葉がぴったりのゴスペルシンガーでした。そう思ったのは私だけではなかったようで、何人もの人たちが同じ感想を述べていました。
私たちは、謙遜な人物に出会うと、すぐにその人のことが好きになります。私も短時間の内に、このゴスペルシンガーのファンになってしまいました。彼のことを応援してあげたいような気にさせられました。

確かに、「謙遜」は人を惹きつける力です。バイブルは謙遜を高く評価して、次のように語っています。 

「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜」

 古代世界の人たちにとって、「心の驕り」はまさに命取りになったのでしょう。「謙遜」はサバイバルのためのキーワードの一つであったことが分かります。

さて、私の場合はどうでしょうか。正直に告白しますと、私の中には、他人が謙遜になっている場合はそれを喜ぶが、自分が謙遜になることに関しては躊躇するという性質があります。恐らくこれは、私だけに限られたことではないと思います。
なぜそうなのでしょうか。その理由は、「謙遜」という言葉から否定的なイメージを感じ取っているからではないでしょうか。謙遜になるとは、弱くなり、玄関マットのように人に踏みつけられる存在になることだ、と思い込んでいる人が結構いるようです。しかし、そのようなイメージは真の謙遜とはなんの関係もありません。謙遜とは弱くなることではなく、逆に強くなることなのです。

モーセとイエス

バイブルの中で「謙遜な人」として描かれている人物は、二人しかいません。旧約聖書に登場するモーセと、新約聖書に登場するイエスです。この二人の生き方を詳細に検討すると、「謙遜」の定義がひっくり返るような衝撃を感じるはずです。

バイブルはモーセについてこう語っています。

「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」

モーセは非常に謙遜でしたが、決して軟弱であったり、弱音を吐いたりするような人物ではありませんでした。もし内面的な弱さを抱えていたとするなら、出エジプト記に書かれているような英雄的行為を実行することは不可能だったでしょう。彼は、奴隷となっていた200万人前後のイスラエル人たちをエジプトから連れ出しました。それ以降も彼は、40年間にわたって、奴隷根性に凝り固まったイスラエル人たちを引率して荒野の旅を続けたのです。軟弱な人物なら、その激務に耐えられるはずがないのです。

イエスの場合はどうでしょうか。 

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」

 イエスは人の言うなりになるような人物だったでしょうか。そうではありません。イエスは弱い人には憐れみを示しましたが、傲慢な人や偽善者には徹底的に立ち向かっています。イエスはその生涯において、2度にわたって、エルサレムの神殿の中で商売をしていた者たちをものすごい剣幕で追い出しています。彼らが善良な庶民を搾取し、私腹を肥やしていたからです。もしイエスが軟弱な人物であるなら、たったひとりでこのようなことができるはずはありません。モーセとイエスの例から確実に言えるのは、謙遜とは弱さでないということです。では、謙遜とは一体なんなのでしょうか。

傲慢な人と謙遜な人

謙遜の対極にあるのは、傲慢です。傲慢な人とは、自己満足した人、尊大な人、うぬぼれの強い人です。そのような人は、「頼れるのは自分だけだ」という人生観で生きています。自分に実力があったから成功したのだという顔をしている輩ほど、鼻持ちならない者はいません。バイブルは、 

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」

 と教えています。つまり、傲慢な態度を取っている人は、破滅の淵に立っているということです。

一方、謙遜な人とは、自分の限界や足りなさを自覚している人、自分は生きているのではなく生かされているのだということを認めている人のことです。

冒頭に紹介した黒人のゴスペルシンガーは、かつて麻薬に手を出して投獄されていたことがありました。彼は獄中で、麻薬の奴隷になっている自分の姿に絶望し、暗黒の中に投げ込まれました。そこに光をもたらしたのは、バイブルでした。彼は獄舎の中で必死になってバイブルを読み、そこから助けを得ました。不思議なことですが、彼は瞬間的な心の変化を体験したそうです。
その劇的な実体験を、彼は舞台の上で証言し、その時の思いを歌ってくれました。その正直で真摯な姿勢が、聴いている人たちに深い感動を与えました。

謙遜な人はなぜ魅力的なのか?

謙遜な人はなぜ魅力的だと言えるのでしょうか。それは、その人が自分中心にものごとを考えることを止めているからです。こういう人物は、常に天下国家のことに目配りをし、他人の利益を優先させて行動しています。さらに、他人から受ける批判や中傷を聞き流す能力を持っています。

日本史の中で謙遜な人を探すとするなら、西郷隆盛のことが真っ先に思い浮かびます。彼は幕末から明治維新にかけて大きな影響力を発揮しましたが、その最大の理由は彼が持っていた「無私の心」です。つまり、私利私欲がないために、大局的に天下国家を論じることができたということです。そのために、彼は人々から大いに慕われました。西郷隆盛の座右の銘は、「敬天愛人」です。「天を敬い、人を愛する」ことが彼の人生の一大原則でした。
日本史の中で、西郷隆盛の人物の大きさは、際立っています。

現代が抱える指導者不足という問題

現代ほど、指導者の資質が問われている時代はないでしょう。このことは、政界、経済界、教育界だけでなく、スポーツ界でも言えることです。
かつての名選手、名監督で、今は野球評論家の広岡達郎氏が、『野球再生』という本を書いています。その広岡氏が、日本のプロ野球再生のカギは何かという質問に対して、次のように答えています(『週刊エコノミスト』2007年4月3日号)。
「育成です。人は必ず育つものです。選手が育てば(大リーグに)流出しても補充は可能だし、野球の裾野を広げることにもつながります。一般社会にも当てはまりますが、育成ということに気づかない組織はだめになりますよ」
指導者が自分中心に動き、人材育成に興味を示さないなら、どのような社会や組織も、必ず崩壊します。

今の時代が求めているのは、謙遜な指導者の出現です。謙遜な人は他人を生かし、結果的に自分を生かします。

この章のポイント

1. 心の驕りは、身の破滅を招くことを知れ。
2. 自分は生きているのではなく、生かされているのだということを知れ。
3. 謙遜こそ、自分を生かし、人を生かす道であることを知れ。