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今日の聖書の言葉

十字架のことば(5)―第4のことば:絶望の叫び―

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第4のことば:絶望の叫びについて考えます。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ
わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか マタイの福音書27:46

スピーカー:中川健一

聖書箇所:マタイの福音書 27:45~46

収録日:20130115

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1.はじめに

(1)「十字架のことば」には7つある。

①前半:午前9時から正午までの間の3時間
*3つのことば
*他人に関するものである。
②後半:正午から午後3時までの間の3時間
*4つのことば
*自分に関するものである。

 

(2)第1のことばは、赦しの祈りである。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)

 

(3)第2のことばは、救いを約束することばである。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)

 

(4)第3のことばは、愛のことばである。

「女の方。そこに、あなたの息子がいます」(ヨハ19:26)

「そこに、あなたの母がいます」(ヨハ19:27)

 

(5)第4のことばは、絶望の叫びである。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)

①第4のことばは、人間の4つの必要に答えている。

 

 

2.アウトライン

(1)なだめの供え物(Propitiation)

(2)贖いの代価(Redemption)

(3)義認(Justification)

(4)和解(Reconciliation)

 

 

3.結論:このことばの現代的意味について考える。

 

 

このメッセージは、第4のことばの意味について考えるものである。

 

 

 

序 言

 

1.暗やみ

(1)出エジプト記では、エジプトに対する神の裁きのことである。

(2)預言書では、終末に起こる神の裁きのことである。

 

 

2.午後3時

(1)十字架刑では、罪人がこんなに早く死ぬことはない。

(2)午後3時は、午後のささげ物の時間である。

(3)イエスは、世の罪を取り除くためのいけにえとして死のうとしている。

(4)この点に関する使徒たちの教えは、明瞭である。

①ヨハネ1:29

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」

②Ⅱコリント5:21

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」

③Ⅰペテロ2:24

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」

 

 

3.マタイ27:46

「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」

 

(1)イエスは、父なる神を疑っているわけではない。

①これは、詩篇22:1からの引用である。
②ユダヤ人たちには、そのことがすぐに分かった。
③アラム語による引用である。

 

(2)詩篇22:1を引用した理由は何か。

①罪のためのあがないとして死ぬとは、父なる神との分離を意味する。
②父なる神は、子なる神から顔をそむけるのである。
③イエスは、その分離に耐えられない。それを表現するのが詩篇22:1である。
*苦しむ義人の叫び
④イエスは、2重の死を迎えようとしていた。
⑤そしてイエスは、私たちに4つの祝福を与えようとしていた。
 

 

 

Ⅰ.なだめの供え物(Propitiation):神殿のイメージ

 

1.旧約時代のいけにえの動物は、すべてイエスを予表するものであった。

(1)一時的に、罪を覆うもの。

 

 

2.最後の晩餐は、過越の食事であった。

(1)イエスはご自身を、過越の小羊として啓示された。

 

 

3.ゲツセマネの園での祈り(マタ26:39やルカ22:44参照)

(1)「杯」とは、神の怒りの象徴である。

(2)神は、罪に対して怒られる。それが神の性質である。

(3)イエスに罪が転嫁されたとき、父なる神はイエスとの関係を断ち切った。

(4)私たちには、なだめの供え物が必要である。

 

 

 

Ⅱ.贖いの代価(Redemption):奴隷市場のイメージ

 

1.Ⅰコリント6:20

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」

 

(1)私たちは奴隷である。

①罪の奴隷
②悪魔の奴隷
③人間の奴隷

 

(2)私たちを買い戻すために、イエスの命が代価として払われた。

①私たちの命の価値は、イエスの命である。
②代価が誰に対して支払われたかは、聖書は記録していない。

 

 

 

Ⅲ.義認(Justification):法廷のイメージ

 

1.Ⅱコリント5:21

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」

 

(1)義認とは、罪ある者が「無罪」宣言を受けること。

(2)聖化と混同してはならない。

(3)最後の裁きにおける「無罪」宣言である。

 

2.転嫁という概念

(1)アダムの罪が、私たちの上に転嫁された。

(2)私たちの罪が、最後のアダム(イエス)の上に転嫁された。

 

 

 

Ⅳ.和解(Reconciliation):家庭のイメージ

 

1.コロサイ1:19~22

「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした」

 

 

2.この和解は一方通行である。

①私たち人間が、神に対して和解するのである。
(例話)母の愛を疑う娘とその母
②神の愛は、人間の親の愛以上のものである。

 

 

3.イエスの人格は、そのまま神の性質を反映させている。

 

結論:このことばの現代的意味

 

1.詩篇22:1~3

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」

 

(1)詩篇22篇は、苦しむ義人の叫びである。

①彼は、「どうして」と問う。

 

(2)3節では、「けれども、あなたは聖であられ」となっている。

①神が罪に対して顔をそむけるのは当然のことである。

 

 

2.詩編22:25~28

「大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、【主】を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。地の果て果てもみな、思い起こし、【主】に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。まことに、王権は【主】のもの。主は、国々を統べ治めておられる」

 

(1)イエスの叫びは、勝利の叫びであった。

(2)私たちがイエスを救い主として信頼する時、勝利の預言が成就する。

 

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