友人の誘いで教会に行ってみたのですが、「あなたは救われていますか」と言われ、ちょっと戸惑いました。失礼な感じもしました。キリスト教で言う「救い」とはどういうことですか。
そうでしたか。私も学生時代に教会に行き始めたころ、「中川さん、あなたは救われていますか」と言われて、反発を覚えたことを思い出しました。まるで魚が網で「すくわれる」かのような印象があり、これは注意しないといけないなと思ったりしました。
「あなたは救われていますか」と言われて戸惑う理由は、自分は救われる必要があるとは思っていないからではないでしょうか。「救われる」という言葉を物理的な意味で捉えれば、とりあえず健康で、経済的にも困っていなければ、自力で生きていけるわけですから、救いの必要性は感じないわけです。しかし、重病の人、危険な状態に置かれている人、苦しみの中にいる人は、そこから解放されたいと願っていますので、救いの必要性を切実に感じています。自信満々で生きている人でも、致命的な災害や悲劇に直面すると、たちまち人間の弱さを実感させられることになります。
ところで、冒頭の質問では、より根源的な意味で「救われる」という言葉を使っています。つまり、魂の救いに係る質問だということです。私は大学時代に教会に通い始めましたが、その理由は、人生に不安を感じていたからです。人は死んだらどうなるのか、その先に命はあるのか、罪に対する裁きはあるのか、天国や地獄はあるのか、などなど、頭の中には「根源的な問い」が一杯ありました。物理的には救いの必要性をさほど感じてはいませんでしたが、精神的には確固たる何かを求めていたのです。
聖書は、以上の2つの意味での「救い」について語っていますが、より頻繁に出てくるのは、後者の「根源的救い、永遠の救い、魂の救い」の方です。その場合の「救われる」とは、「神の怒り」から解放されることです。聖書を読まなくても、私たち人間の心には罪責感というものがあります。私たちは、裁きに対する本能的な恐れを持っています。箴言28章1節に「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」とあります。実に興味深い言葉です。
①悪者は、本能的な恐れを感じて、いつも精神的には逃げ回っています。
②それに対して、正しい人は若獅子のように力に満ちています。この「正しい人」を「救われた人」と考えれば、この聖句の意味はよく理解できます。
神は義なるお方ですから、罪をそのまま放置することはされません。もっと言うと、聖であり義である神は、罪に対して怒っておられるのです。愛の神は怒らないと考えているなら、それは大きな誤解です。罪や悪に対する怒りは、愛という性質の一部です。「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです。罪のゆえに、神と私たちの間には深い淵ができています。罪は私たちに、「神との分離」と「死」をもたらしました。「罪から来る報酬は死です」(ローマ人への手紙6:23)とある通りです。その私たちのために、神は救いの道を用意されました。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ人への手紙5:9)。この聖句から分かるのは、
①私たちはキリストの血によって義と認められるということ、つまり、キリストが私たちの罪のために死んでくださったので、私たちの罪が赦されるということです。
②さらに、義と認められるとは、神の怒りから救われるということです。
次に湧いてくる疑問は、救いを受けるためにはどうすればいいのか、というものです。この点に関しては、いつか詳細に説明したいと思いますが、今回は要点だけを述べておきます。私たちは「信仰」によって救われます。
①福音を聞き、それを理解する必要があります。福音の内容は、イエス・キリストが自分の罪のために死なれ、墓に葬られ、3日目に復活されたということです。
②次に、それに同意する必要があります。
③最後に、それを事実として受け入れ、そのようなお方としてイエス・キリストに信頼を置く必要があります。これが信仰による救いです。これ以外に、罪人が救われる方法はありません。
私は大学3年生のときに、イエス・キリストを救い主として信じました。これは私の人生で最大、かつ最高の決断でした。時が経過するにつれて、その決断がいかに素晴らしいものであったかを実感するようになっています。「あなたは救われていますか」と問われて、「はい」と答えることのできる人は幸いです。あなたもぜひ、そうなってください。
(答えた人:牧師 中川健一)
もっと詳しく知りたい方は
難易度はかなり高めの上級者向き教材ですが、ユダヤ教と聖書に精通したアーノルド・フルクテンバウム博士による論理的で明確な解説がなされています。