2014

06.16

ハリー・ポッター現象をどう考えるか

※この記事は、2011年9月の月刊ハーベスト・タイム紙からの転載記事です。

はじめに

『ハリー・ポッターシリーズ』の最終映画作品、「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」の世界興行収入が、公開からわずか19日で10億ドルを突破したと報じられた(2011/8/2時点の情報)。これは、異例の速さであるという。言うまでもなく、原作は、イギリスの作家J・K・ローリングが書いたファンタジー小説である。第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』は1997年に刊行され、無名作家の処女作であるにもかかわらず、短時間の内に世界的ベストセラーになった。それ以降、ほぼ毎年1巻のペースで刊行され、2007年7月に発売された第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』で、シリーズが完結した。

この物語は、1990年代のイギリス(現代)を舞台に、魔術の世界(本来は古代的なもの)とのかかわりの中で、展開していく(相反する二つの時代性の重なりが、この作品の面白みとなっている)。主人公のハリー少年は、11歳の誕生日に自分が魔法使いであることを知り、ホグワーツ魔法魔術学校へ入学する。主要プロットは、さまざまな人々との出会いを通した少年の成長と、両親を殺害したヴォルデモート卿との戦いである。

著者のJ・K・ローリングは、最初は自らの信仰について沈黙していたが、後にスコットランド教会の会員であることを明かした(長老派の信仰)。沈黙の理由は、読者に本シリーズの展開について予断を与えたくなかったからだという。また彼女は、自分の作品がC・S・ルイス(『ナルニア国ものがたり』の著者)やJ・R・R・トールキン(『指輪物語』の著者)の影響を受けていることを告白している。しかし、後になって、伝道目的でこのシリーズを書いたわけではないとも語っているので、この点では、ルイスやトールキンとは袂を分かったことになる。

批判の声

第1巻が出版されるとすぐに、この作品を批判する声がキリスト教界から上がった(同様の批判は、イスラム教徒からもあった)。とは言え、キリスト教界が一枚岩であったわけではない。一般的に、福音派(保守的教会)のクリスチャンたちは反対したが、社会派(自由主義神学の教会)のクリスチャンたちは寛容であった。反対した人たちは、魔術の世界を肯定的に描いていることに不安を覚えた。極端な例であるが、クリスチャンの弁護士が、この作品の貸し出しを行っている公共の図書館を訴えるという出来事も起こった。テキサス在住のある有名な牧師は、この小説を「魔術の前兆」とさえ呼んでいる。

カトリック教会の反応としては、ラツィンガー枢機卿(現在の法王ベネディクト16世)の名前で、この小説を批判する手紙が書かれた。しかし、2009年の法王庁のニュースレターに好意的な書評が掲載されたので、カトリック教会の立場は途中で変更されたと考えられる。
クリスチャンが反対する理由は、聖書が魔術を禁止しているという点にある。「呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、【主】が忌みきらわれるからである。…」(申命記18:10〜11)。突き詰めれば、この小説が描いている「魔術性」をどう解釈するかによって、クリスチャンの意見が分かれるということである。
この小説を評価する人たちは、C・S・ルイスやJ・R・R・トールキンも同様の手法を用いているのに、J・K・ローリングだけが批判されるのは筋違いだと反論する。また、ここに描かれている「魔術」は、聖書が禁止している魔術とは異質なもので、問題にすること自体がおかしいとも言う。さらに、この作品は、英国におけるファンタジー小説の伝統に則ったもので、大切なことは、忠誠、勇気、自己犠牲の愛などのテーマに目を注ぐことであると主張する者もいる。

最近の状況

このシリーズが完結した今、批判の声は静まりつつある。このシリーズが完結する頃、批判の声は次第に静まっていった。その理由のひとつは、クリスチャンたちの関心が別の話題に移ったからだと考えられる。もうひとつのより強力な理由は、第7巻の最後で、このシリーズが伝えようとしていたテーマが、聖書のメッセージであることがより鮮明になったからであろう。「最後に滅ぼされるべき敵は死である」、「宝のあるところに私たちの心もある」、これが結論である。

「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」(家族問題を扱う米国の団体)のボブ・ワリツェヴィスキーは、自分たちの団体でも意見の一致はないと前置きしながら、もし子供たちがこの映画に興味を示したなら、親はそれを教育の機会と捉えるのがよいと助言する。自己犠牲、英雄的人生、友情の力などが出てきたら、拍手をすればよいのだと。彼は、クリスチャンに対するよりも、未信者に対する悪影響の方をより心配している。なぜなら、未信者の場合は、そこに描かれた魔術に不健康な興味を抱く可能性があるからである。確かに、このシリーズの出版以降、魔術を描いた小説が大量に書かれているのは、ひとつの不安材料である。

以上のことから導き出される結論は、次のようなものであろう。「ハリー・ポッター」シリーズに関しては、クリスチャンの間に賛否両論があるが、単に批判するだけでなく、積極的に用いることも考えるべきである。その場合、「魔術」やそれが提示している世界観に焦点を合わせるのではなく、その世界観の中で伝達されているテーマに関心を払うべきである。「最後の敵は死である」というテーマも、「宝のあるところに心もある」というテーマも、ともに聖書的真理である。