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今日の聖書の言葉

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:3~4)

紀元55年頃のローマ世界

使徒パウロ

私たち日本人は儒教的な環境で育ってきているので、患難や忍耐について固定的観念を持ってしまいがちです。そのため、この聖書箇所は前後の文脈を無視して誤解されてしまうことがとても多い箇所です。患難を耐え抜き、磨かれて品性が生まれ、その延長上で希望にたどり着くのだと考えてしまうのです。しかしながら、ここで言っている「希望」の根拠は私たちの頑張りではなく、神の恵みにあります。前後の節も読みながらこの箇所の本当の意味を考えてみましょう。

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1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ 5:1〜5)

3節の「そればかりではなく」とあるように、ここに達する人はすでにいくつかのステップを踏んでいます。第一に、1節にあるように神に「義と認められる」という体験をしています。イエス・キリストが自分の罪に対する代価を十字架の上で支払ってくれたことを信じた人は罪を赦され「義」と認められ、神との間に平和があります。つまり恵みにより信仰によって救われるという体験をしているのです。これを「義認」と呼びます。

「義認」を受け取ると、神との関係が回復され、神の輝き、素晴らしさ(栄光)を体験的に知るようになり、神の栄光を知ることが「生きる力」また「喜び」となります。これが聖書の理解と聖霊の働きを通して「神を知っていくこと」により、自分自身も神に似た者に変えられていく「聖化」とよばれるプロセスです。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます(IIコリント3:18)。

神の栄光のご性質の中でも最も輝いているのは愛です。ですから、神と愛の関係を深めていくプロセスと言うこともできます。これがわかると5節に「神の愛」がでてくる意味がわかるようになります。

「聖化」が始ると「聖化」の完成された状態である「栄化」が楽しみになってきます。「栄化」を受ける時には、今は一部しか見ていない「神の栄光」を完全に知ることになり、その時には完全に罪から解放された状態になります。残念ながら私たちがこの世に生きている間「聖化」は完成しません。2節の「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」というのは、聖化のプロセスの中で「神の栄光」を喜んでいるので、将来体験する「栄化」への希望もあふれ喜んでいるという意味です。

「神の栄光を望む」段階までくると、普通ではありえないことが起こります。それが「患難さえも喜ぶ」ということです。患難が忍耐を生み出し、忍耐が品性を生み出し、練られた品性が、結局「栄光の希望」の喜びへと戻ってくるからです。患難が神との関係を引き裂くものではなく、さらに深める役割を果たすようになるのです。

患難を通り抜けた後にその歩みを振り返り「私には希望がある!私は神に愛されているからだ!」と宣言できるようになること、これが本物です。

中川 洋

この記事の執筆者

ハーベスト・タイムU.S.A.

中川 洋