聖書の神は三位一体の神であると信じていますが、誰に向かって祈ったらいいのか混乱しています。私の場合は、90%はイエス様に呼びかけて祈っています。ある集会に出た時に、「お父様、イエス様、聖霊様」と祈っている人がいたので、驚いたことがあります。私の混乱を解いてください。
三位一体のどのお方に祈っても、必ずしも間違いとは言えません。三位格はすべて神であり、そこには上下関係はないからです。と同時に、聖書が教える祈りのパターンは、「父なる神」への祈りであることも認識する必要があります。旧約聖書でも新約聖書でも、記録されているのは「父なる神」に呼びかける祈りです。
(1) 唯一の例外は、ステパノの言葉です。彼は石打の刑に会いながら、こう叫んでいます。「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」(使徒行伝7:59)。この聖句を根拠に、イエスに呼びかける祈りは聖書的だと説明する人がいます。しかし、その説明には無理があります。なぜなら、ステパノの言葉は、祈りというよりは、自分が見たイエスの幻への応答だからです。彼は、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒の働き7:56)と言っています。つまり彼は、主イエスの幻を目撃し、それに応答しているのです。これは、天使を見た人が、天使に向かって自分の願いを伝えるのと似ています。その人は天使に向かって祈っているのではなく、自分が見た幻に応答しているだけです。
(2) 聖霊に向かって祈る例は、聖書にはありません。御霊は私たちを父なる神に向かわせ、父なる神に祈る言葉を与えてくださいます。パウロは、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」と書いています(ローマ人への手紙8:15)。
(3) 主イエスが大祭司であることを根拠に、イエスに向かって呼びかける祈りを正当化しようとする人がいます。主イエスが私たちの大祭司として執りなしをしておられることは、事実です。だからと言って、それがイエスに向かって祈ることの根拠になるわけではありません。旧約時代には、アロンとその子孫たちが大祭司として立てられました。では、イスラエルの民は大祭司に向かって祈ったのでしょうか。そんなことはありません。大祭司は神と民の間に立つ仲介者ですが、イスラエルの民はその大祭司に向かってではなく、神に向かって祈ったのです。新約時代の私たちは、「主イエスの御名によって」祈ることを勧められています。これは、御子の権威によって祈るということであり、呼びかける対象はあくまでも父なる神です。
(4) 聖書的祈りのパターンは、「父なる神に向かって、御子イエスを通して、聖霊によって祈る」ということです。このことを認識し、祈りの力を体験しようではありませんか。祈りは賛美、礼拝、そして神との対話です。
(答えた人:牧師 中川健一)