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今日の聖書の言葉

聖書に、願いがすべて叶う方法と言う箇所が出てきますが本当ですか。

マルコの福音書11:22、ヨハネの福音書15:7に願いがすべて叶う方法が書いてあります。文字通り解釈してよろしいのでしょうか。ヨハネの福音書15:7について、『わたしのことばがあなたがたにとどまる』という意味は、互いに愛し合うという掟を実践することが条件になるということでしょうか。夫が難病のため、どうしても癒してほしいという願いがあります。正しい解釈と病への癒しのためにとるべきことを教えてください。

 この質問は、本来は神学的なものですが、難病のご主人をかかえたこの方にとっては、単なる理屈ではなく、極めて実践的、実存的な問いかけです。それが文面から伝わって来ましたので、心に痛みを覚えつつ、誠実にお答えせねばならないと感じた次第です。

先ず、マルコの福音書11:22〜24を見てみましょう。

「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります』」

(1)ここでイエスは、祈る際の信仰の重要性について教えておられます。信仰とは、神は全知全能なるお方であり、愛に溢れたお方であると認めることです。神にとって不可能なことはないと認め、神への揺るぎなき信頼を告白することです。これが祈りの土台になる心構えです。

(2)次にイエスは、誇張法を用いて、山をも動かす祈りについて語っておられます。「この山」とはオリーブ山のことで、人間的には解決不可能な問題を指しています。「海」とは死海のことでしょう。オリーブ山の頂上からは死海が見えます。「海に入れ」とは、問題が解決すること意味しています。

(3)信仰ある祈りは、神の力を地上にもたらす管であり、人間的に不可能に見える問題を解決する方法です。それゆえ、祈りがまだ聞かれていなくても、すでに受けたと信じるように勧められています。つまり、祈りの答えが来るのがまだ先のことであっても、すでに成就したかのように振る舞うべきだというのです。

(4)もちろん、この教えにはある前提(共通認識)があります。それは、「祈りの内容は神の御心と調和したものでなければならない」という前提です。イエスの弟子たちは、このことをよく心得ていました。イエスはゲツセマネの園でこう祈られました。

「またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください』」(マルコの福音書14:36)

これは、私たちが祈る際の祈りのモデルとなります。主の祈りにおいても、同じことが教えられています。冒頭に父なる神の御心を求める祈りが出てきます。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイの福音書6:9〜10)

次に、ヨハネの福音書15:15〜17を見てみましょう。

 「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」

 (1)ここでイエスは、弟子たちを「しもべ(奴隷)」ではなく、「友」だと宣言しておられます。「しもべ」は主人から命令されたことを、理解していてもしていなくても、そのまま実行します。しかしイエスは、父から啓示された「霊的真理」をそのまま弟子たちに知らせました。それゆえ弟子たちは、「友」です。

 (2)ユダヤ教の習慣では、弟子が師を選ぶのですが、12弟子の場合はそれとは逆で、イエスが彼らを選びました。このことばによって、弟子たちは大いなる慰めを得ました。

 (3)イエスが彼らを選んだ理由は、「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」です。いつまでも残る実とは、「救われた魂」のことでしょう。

(4)選びのもう一つの理由は、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるため」です。ここでも、「神の御心に沿った祈り」が強調されています。「イエスの名によって」とは、イエスの代理人として祈ることであり、その祈りは父の御心と完全に調和したものです。

(5)神の御心に沿った信仰生活を送っているなら、当然、互いに愛し合うようになります。ここでこの命令が与えられている理由は、この世がイエスの弟子たちに敵対するようになるからだと思われます。互いに愛し合うことによってイエスの弟子となる資格を得るということではなく、互いに愛し合うことを通して、すでにイエスの弟子とされていることをこの世に示すのです。

 

まとめ

 以上のことを要約すると、次のようになります。

 (1)「願いがすべて叶う方法」は存在するとも、存在しないとも言えます。御心から外れた祈りをする人にとっては、それは存在しません。私たち人間は、これが最善だと判断し、それゆえこれは御心だと確信して祈るかもしれませんが、私たちの判断が100パーセント御心に叶っているというのは、考えにくいです。それゆえ、霊的に成長するとは、御心に沿った祈りをする確率が高まっていくことだとも言えるのです。私たちは不完全なのですから、神に要求を押し付けるような祈りではなく、「でも御心の通りにしてください」という祈りをする必要があります。

 (2)御心に叶った祈りの場合でも、その成就のタイミングについては、私たちの思い通りにならないことがよくあります。神はその祈りを聞いておられますし、また、それに答えてくださいますが、その時がいつかを判断するのは、神の主権に属することです。

 (3)聖書に登場する信仰者の多くが、神の約束の成就を見ることなしに天に召されていきました。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル人への手紙 11:13)

神は彼らの願いを無視されたのでしょうか。神の約束は反故になったのでしょうか。そうではありません。私たち人間は、地上生涯のことしか視野に入っていないことが多いのですが、神の計画は壮大なもの、永遠の世界に関わることです。

 (4)神の約束が成就するタイミングは、極端な場合、死後になる可能性もあります。聖書的な世界観に立てば、生涯で最大の悲劇である「肉体の死」は、すべての問題の解決でもあります。考えてみれば、「死から救ってください」という祈りは、一時的には聞かれても、究極的には聞かれないものです。すべての人が、いつか必ず死ぬからです。しかし、逆説的ではありますが、その祈りは死を通過することによって、聞かれるのです。イエス・キリストを救い主と信じた者には、死ぬことのない復活の体が与えられるからです(そういう意味で、ひとりでも多くの人に福音を伝える必要があります)。

 冒頭の質問を下さった婦人への助言:

 「難病との戦いは本当に大変だと思います。すでに祈りを積み上げて来られましたので、神さまはその祈りをご存知です。私は、癒しの祈りによって癒された方も、癒されなかった方も知っています。しかし、どちらの方の祈りも、究極的には聞かれていると信じています。それゆえ、癒しの祈りをしたなら、結果は神に委ねることが大切だと思います。また、神がいかに大いなるお方であり、愛に溢れたお方であるかを思い起こし、御名を称え、賛美することも大切です。

『私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある』(詩篇34:1)

これは、ダビデが敵に追われていた時に詠んだ歌です。願わくは、この祈りが私たちのものとなりますように」

(答えた人:牧師 中川健一)