聖書の希望とは罪が許され御国に行くことが出来ることだと聞きました。するとこの世の成功とは関係のないような気がして、さっさと死んで御国に入りたいと思ってしまうのです。何か間違っているのでしょうか。この世での希望とは何なのでしょうか。
確かに聖書が論じる希望は天の御国の完成に対する希望です。今の人生を生きる「希望」という言葉では論じられていませんが、この世において「生きる力」「目的」は与えられています。そして、これは将来「天の御国」で完成することと密接に関連しています。
クリスチャンがこの世で生きて行く目的と原動力は「神の栄光」です。さらに言えば天地創造から救いの完成まで全てが「神の栄光」が現されるために成されます(参照:エペソ1章)。また「天の御国」において起こることも同様です。人が神の栄光の中で神の栄光をほめたたえながら生活するのが「天の御国」です。ここででは充分に伝えきれない壮大なテーマですが、簡単に説明すると以下のようになります。
すべてのクリスチャンが「世の光」となるという「目的」を与えられています。この「光」は自力で輝く「光」ではなく、イエス・キリストの御顔にある「神の栄光」を反射する「光」です。「神の栄光」に触れたとき、人は喜びと力といのちに満ちあふれます。この「世の光」の具体的な表現方法はそれぞれの賜物や人生によって違います。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ 8:12)
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント 4:6 )
では「神の栄光」とは何でしょうか?「神の栄光」とは神のあらゆる素晴らしい性質の現れです。「神の栄光」の光を浴びるという体験は
1)聖書の言葉を通して神を知るという「知識」を得るということ
2)聖霊の助けによって体験的に神を知るという「体験的な知識」を得ることです。
すべてのクリスチャンに与えられている聖霊の助けによって神の言葉を「体験的に知る」時に、私たちは「神の栄光」の世界に触れることができるのです。
ところで、聖書では「神の栄光を求めなさい」という表現を使いません。そのかわりに「神の御顔を求めなさい」という言葉が使われます。
「御顔を求める」ということは単に霊的なパワーに触れることを求めるのではなく、パーソナリティー(神格)を持って生きておられる神と「顔と顔を合わせるように」向い合うということを表現しています。神の御顔はいつも「栄光」で輝いているからです。
人生のあらゆる場面において「神の素晴らしさ」つまり「神の栄光」を体験させていただき「神をほめたたえる」ことが、人としての最高の喜びであり、根本的な存在理由なのです。これは天の御国に入ったときに完成する事の「味見」のようなもので、この体験をしている人は「救いの完成」をさらに深く待ち望むようになります。すでにそのことを体験し、知っているからです。
もっと詳しく知りたい方は