2020
06.09
Q.247 臓器提供は許されますか。
植物状態の人の命を奪い、他の命を救うことは隣人を愛することなのでしょうか。という質問者さんです。聖書の時代にはなかったお悩みですが「臓器を提供すること」と「脳死は人の死か」という問題を別々にして、考えてみます。
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Q. 質問
Q:臓器提供についてどのように考えればよいでしょうか。植物状態の人の命を奪い、他の命を救うことは隣人を愛することなのでしょうか。免許証に臓器提供の意思表示をしようと思っているのですが、聖書的かどうか少々不安です。
A. 回答
A:聖書には、臓器提供に関する記述はありません。当時は、臓器提供という概念そのものがなかったので、それも当然のことです。しかし、聖書全体を眺めてみると、いくつかのガイドラインが見えてきます。この質問に関して、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、臓器提供は愛の行為だと考えられます。
主イエスも(マタイ5:43)、パウロも(ローマ13:9)、ヤコブも(ヤコブ2:8)、隣人愛の重要性を教えています。これらの教えの源流は、レビ19:18にあります。 「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である」 。隣人愛の究極的な例は、イエス・キリストの十字架の死です。主イエスは、こう言われました。 「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)
2番目に、クリスチャンの中には、臓器提供に違和感を覚える人がいます。
その理由は、体の一部が欠けているなら、復活の体がもらえなくなると考えるからです。遺体を火葬することに反対するのも、これと同じ理由からです。しかし、地上の体と復活の体は、そもそも成り立ちが異なりますので、この理屈は筋が通りません。創世記3:19で、神はアダムにこう宣告されました。 「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」
3番目に、脳死を個体死として受け入れることには、私は抵抗を覚えます。
従来の医学では、死とは、脳、心臓、肺のすべての機能が停止した状態を言いました。ところが今では、「脳死」という概念が出て来ました。脳の機能が停止しても、生命維持装置によって、体の細胞を生かし続けることが可能になりました。これが脳死状態です。移植手術を成功させるためには、できるだけ新鮮な臓器が必要です。脳死状態の人から臓器を摘出できるなら、それに超したことはありません。しかし脳死が、そもそも聖書が言う死に該当するのかどうかと言う疑問が残ります。万が一にも蘇生の可能性があるなら、それを死と認めるべきではないというのが、私の率直な思いです。
このことも考慮に入れて、最終的な判断をしてください。
参考になる聖句
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」 (ヨハネ15:13)
基本的には、臓器提供は愛の行為です。
もっと詳しく知りたい方は
▼今回のご質問のように、聖書に直接的な言及は無いけれども、クリスチャンが聖書の原則と照らし合わせて自分で判断すべき内容のご質問は「グレーゾーン」というタグにまとめています。(※臓器提供がグレーであるという意味ではありません、念の為…)