2014

11.24

Q.52 聖書は、安楽死についてどう教えているのですか?

自殺についてのシリーズ第3回目。「いっそ死ねたら楽なのに」そう思うほど辛い病の中におられる方にとって、安楽死を支持しない意見は冷たく感じられてしまうのかも知れません。でも、聖書はなんと言っているでしょう。今回は安楽死にまつわる3つの「よくある誤解」を取り上げながら、死の自己決定権や苦しみの意味について考えていきます。

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#52. 聖書は安楽死について、どう教えていますか。

Q. 質問

最近、安楽死のニュースをよく見聞きするようになりました。聖書は、安楽死についてどう教えているのですか。

A. 回答

まず、安楽死を定義しておきましょう。安楽死とは、「患者本人の意思に基づいて、患者をほう助し、死に至らせるもの」です。安楽死論争が、いま世界的に広まっていますが、これは突き詰めると「死の自己決定権」に関する論争です。

いつものように3つ申し上げますが、今日は「誤解」というキーワードを用いて、3つのポイントをお話したいと思います。

1番目に、安楽死は自殺ではないという誤解があります。

けれども、安楽死は聖書から見ると「自殺」です。「安楽死は神の権威に対する挑戦である」ということを、憶えておきたいと思います。

2番目に、死の自己決定権に関する誤解があります。

聖書的には、命は「神からの賜物」です。したがって、人には死の自己決定権はありません。ですから、天寿を全うせずに死期を早めることは、神への反抗です。

3番目に、苦しみは避けた方がいいという誤解があります。

ある人は長期間苦しみ、ある人は短時間でその苦しみが終わります。しかし、これもそれも、「神が用意された人生」です。もちろん、苦難というのは誰にとっても辛いことです。そのため私たちは、いつの間にか、「苦難というのは歓迎できないことだ」と思い込んでいます。しかし、聖書は「苦しみには意味がある」と教えています。例えば、伝道者の書7章14節にはこうあります。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」(伝道者の書7:14)

「うまくいっているときには、喜べばいいよ。そして、逆風が吹いたときには、自らを省みるんだよ」と、聖書は教えています。つまり、苦しみのときには自らの人生を考え、究極的な問いかけを自分にするということです。試練の時、逆境の日というのは、キリストと出会うチャンスでもあるのです。

末期症状の人であっても、「100%良くならない」と誰が断言できるのでしょうか。生きている限りは、快復する可能性は皆無ではありません。ですから、「苦しみは避けた方がいい」という誤解を排除して、神様から与えられている人生を最後まで全うするという心構えが必要です。

参考になる聖句

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」(伝道者の書7:14)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ人への手紙5:3〜5)

もっと詳しく知りたい方は

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ5:3〜5)

尊厳死は自殺ではないのですか?  ※安楽死ではなく尊厳死となると、また話は別です。

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