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2020

04.20

Q.240 持てるものをすべて捧げるのは、よいことですか。

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こちらは、マルコによる福音書に登場するやもめが全財産を捧げたという箇所からのご質問です。一方、第二テサロニケで、パウロは自身も伝道者でありながら手に職があり「自分で得たパンを食べなさい」と教えています。全財産を捧げたり、財産を共同体で共有したりといった聖書に登場する経済的管理は、現代の私たちにどこまで適用されるべきなのでしょうか。

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Q. 質問

Q:聖書に書いてある「やもめの献金」の部分をそのまま実行し、貯金すべてを失った人がいます。このような献金の仕方は、聖書的に正しいのでしょうか。

A. 回答

A:「やもめの献金」とは、貧しいやもめがレプタ銅貨2枚を献金箱に投げ入れた出来事を指します(マルコ12:42)。レプタ銅貨は、当時流通していた貨幣の最小単位です。このテーマに関して、いつものように3つ申し上げます。

1番目に、聖書に記されていることと、それを適用することを、区別しましょう。

聖書に記されているということは、それが実際に起こった出来事だということです。その出来事を実生活に適用すべきかどうかは、慎重に吟味する必要があります。

当時のやもめは、貧困階級の代表でした。その彼女が、レプタ銅貨2枚を捧げました。裕福な人から見れば微々たる額ですが、彼女にとっては全財産でした。彼女の信仰は見上げたものです。その後彼女がどうなったかは書かれていませんが、神がなんらかの祝福を与えてくださった可能性は、大いにあります。では、このやもめの行為は、すべてのクリスチャンが実行すべきものなのでしょうか。私はそうは思いません。もしそうなら、イエスは「あなたがたも行って、同じようにしなさい」と言われたはずですが、そうはなっていません。

2番目に、私たちが見習うべき原則は、経済的自立です。

 パウロは、テサロニケの信者たちに宛てた手紙の中で、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」(第二テサロニケ3:12)と命じています。つまり、経済面での管理は、信者各人に委ねられた責務だということです。無計画に全額を捧げ、後は隣人の世話になるというのは、ほめられたことではありません。初代教会において、自分の持ち物を売ってその代金を教会で共有するということが、しばらくの間行われました。しかしこれもまた、普遍的に適用すべき教えではありません。なぜなら、この方法は、必ず破綻するからです。

とは言え、自らに委ねられ富の中から神に捧げることは、信者が実行すべき善行です。これも忘れてはなりません。

3番目に、「やもめの献金」から学ぶべき教訓は、いくつかあります。

少なくとも3つの教訓が考えられます。①神は、人が注目しないことでも見ておられます。②人の評価と神の評価は、大いに異なります。この物語では、人はやもめが捧げた献金の額を見ましたが、イエスは犠牲の大きさをご覧になりました。③イエスは、信仰に基づく献金を評価されました。つまり、神は私たちの動機をご覧になるということです。

参考になる聖句

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。『まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから』」 (マルコ12:43〜44)

 経済的管理は、クリスチャンの責務のひとつです。