2015
02.23
Q.57 マルコ10章18節がどうしてもわかりません。このイエスの言葉が真実なら、イエスは神ではないと考えるべきではないでしょうか(クリスチャンではない方からの質問)。
マルコ10章18節でイエスは「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」と仰っています。今回のご質問は、それじゃあイエスが神であるという話はどうなるの?という疑問ですね。
今回の聖書箇所に限らず、前後関係を知らずに部分的に読むと、意味が分からなくなるということは多々あります。ここではマルコ10章18節を例に、聖書を読む時に押さえたいチェックポイントを3つ紹介します。
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#57. マルコの福音書10章18節の、イエスのことばがどうしてもわかりません。
Q. 質問
私はまだクリスチャンではなく、現在聖書を読み進めているのですが、マルコの福音書10章18節がどうしてもわかりません。このイエスのことばが真実ならば、イエスは神ではないと考えるべきではないでしょうか。
A. 回答
マルコの福音書10章18節というのは、このようなことばです。
「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」(マルコの福音書10:18)
さあ、すべての聖書箇所の解釈に適用される3つのステップについて、お話をします。
1番目に、文脈を確認するということです。
このことばは、富める若者とイエスの会話です。
この青年には地位も富もありました。当時のユダヤ教の考え方では、富は「神から祝福を受けている証拠」でした。しかし、彼には「永遠のいのち」を得ているという確信がなかったのです。ですから、彼はイエスに「何をしたら永遠のいのちを受けることができるのか」と質問をしました。それに対するイエスの答えが、先ほどのマルコの福音書10章18節のことばです。
これが、この箇所の文脈です。どの聖句を解釈する場合でも、まず文脈を確認することが大切です。
2番目に、そこに出て来る言葉が当時どのような意味で使われていたかを考えることです。
ここでのキーワードは、「尊い先生」という言葉です。彼はイエスに、「尊い先生」と呼びかけています。当時の理解では、これは「神にのみ」用いるべき言葉であって、軽々しく口にすべきでものはないのです。しかし、この青年はイエスに対して「尊い先生」と言っています。つまり、「イエスが神だと認めていない」のに、ただ「へつらいの言葉」を使っているだけなのです。
3番目に、1と2の作業を終えてから、その言葉の意味を汲みだす作業に入ります。
ここでイエスは、この青年が救いに関して誤解していることを見抜いています。つまり、彼が「業による救い」を前提に質問していることを見抜いているのです。「信仰による救い」という概念は、そもそも彼にはないのです。
さらにイエスは、この青年が「イエスは神である」という信仰を持っていないことも見抜いています。それらのことを見抜いた上で、イエスは彼の信仰を試すために、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」と言われたのです。これは、イエスがご自身の神性を否定したということではありません。
ここでイエスは、ある答えを期待しておられます。もしこの青年が、「あなたは神です」と告白していたら、イエスは彼の信仰を祝福し、「あなたは永遠のいのちを得ています」とお語りになったはずです。しかし、この青年はそのような信仰告白には至りませんでした。
マルコの福音書10章18節は、「イエスが神であることを否定することば」ではなくて、逆に「この青年の信仰を引き出そうとしたことば」であるというのが、ここでの結論です。
参考になる聖句
「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです』。するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です』」(マタイの福音書16:16~17)
もっと詳しく知りたい方は
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:16〜17)
▲どの参考リンクも、聖書を文脈や当時の一般的認識に合わせて読むことの重要性、そしてイエス・キリストが100%人であり100%神である事について解説されています。