クリスチャンは亡くなった人に手を合わせないので冷たい…なんて言われがちですが、質問者さんは「家族の死を冷静に受け止めている」と感じたそうです。冷静ではいられないかもしれませんが、確かに悲壮感は違うかも…?その理由はなんでしょう。
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Q.質問
Q:クリスチャンの友人がいますが、家族の死を冷静に受け止めているように見えました。クリスチャンは、家族が死んだとき、どう感じているのですか。クリスチャンでない人と何か違いはありますか。
A.回答
A:クリスチャンが家族の死をどう考えているかについて、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、家族の死は悲しいものです。
ラザロが死んだとき、イエス・キリストはその墓の前で涙を流されました。「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。クリスチャンは死後の命を信じていますが、それでも愛する者の死は悲しいものです。もし信仰があるので悲しくないという人がいるなら、それは不自然なことであり、自分の心を欺いていると思います。
2番目に、悲しみの後に、平安が訪れます。
家族の死を悼み悲しむという行為は、次に訪れる平安を得るために、非常に重要なプロセスです。私の場合は、母の遺体のそばに座ったとき、大声で泣きました。自分でもびっくりするくらい大きな声で、しばらくの間泣き続けました。それを制止する人がいなかったのは、幸いなことでした。悲しみの期間は数日で終わり、次に平安な思いが訪れました。母親はクリスチャンでしたので、私には天国で再会できるという希望がありました。この時は、信仰の力を実感しました。
3番目に、家族がクリスチャンでない場合、クリスチャンはすべてを神に委ねます。
死んだ家族がクリスチャンの場合は、希望があります。では、死んだ家族がクリスチャンでない場合はどうでしょうか。私たちには、すべてを神に委ねることしかできません。(1)死んだ家族の運命を変えることはできないということを受け入れる。(2)死ぬ瞬間に何が起こったかは、神と本人しか知らない。それゆえ、死者の魂がどこに行ったかは神に委ね、自分で論じることはしない。(3)死んだ家族に最も喜ばれる道は、生きている者が神に従って歩むことである。そのことを覚え、さらに信仰の道を歩むことを決断する。
生きている間に、イエス・キリストを救い主として受け入れ、父なる神と和解することは、人生において最も重要な決断です。
参考になる聖句
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」 (ヨハネ11:25)
クリスチャンは、家族の死を悲しみますが、次に平安を味わいます。