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2019

12.03

聖書が教える罪の概念

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bible

日本人に向かって、「あなたは罪人です」と言えば、 ほとんどの場合、否定的な反応が返ってくる。「罪人」 という言葉には、法律に違反した人というニュアンス があるからであろう。聖書が教える罪の概念を隣人に 伝えるのは、容易なことではない。メシアニック・ジュー神学者であるアーノルド・フルクテンバウム 博士は罪をこう定義する。「罪とは、神の性質に反す るすべてのことがらを含む概念である」。神学を学ぶ者には、この定義は単純で分かりやすいが、伝道の現場ではどうだろうか。

 ルース・ローゼン女史(ジューズ・フォー・ジーザ ス)は、自分の体験を踏まえて、相手の罪を指摘するよりは、自分の問題として罪を論じた方が、相手は心を開くと語っている。

 「自分を正直に見つめてみると、私の性質の中に、 神が神であることを認めたくないという思いがある。 もしそれを認めたなら、私がすべきことを、私以上に知っている方がいることになる。また、私に対して何をすべきかを要求する権利を持った方がいることになる。さらに、神との関係を持ちたいと願うなら、神の条件に従わなければならないということにもなる。それは、受け入れがたいことである」

 この辺りまで来ると、相手はうなずき、心を開き始めるそうである。そこで女史は、創世記 3 章を開き、 アダムとエバが、「神は人間の自由を制限している。 神は人を騙そうとしている」という悪魔の噓を信じた 経緯を説明するという。神のことばを信頼しないことが罪の本質である。あらゆる罪の根源は、ここにある。

 

ダビデの罪の告白

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩 51:4 ~ 5)

 ダビデの生涯における最大の汚点は、バテ・シェバ 事件である(2 サム 11:1 〜 27 参照)。彼は、姦淫と殺人の罪を犯した。詩篇 51 篇は、彼の悔い改めの詩である。(1)ダビデの心は、完全に砕かれていた。 彼は、自分には神の前に誇れるものが何もないことを 認め、ただただ、神の恵みとあわれみを求めた。(2)「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し」という言葉は、 誇張表現である。彼は、人に対しても罪を犯したこと を自覚していたが、神に対する罪のほうがより重いので、「ただあなたに」と言ったのである。

 この詩篇から罪の本質を学ぼう。いかなる罪も、第一義的には神に対するものであり、罪人には弁解の余 地がない。イエス・キリストの福音を必要としない人は、ひとりもいない。

 

月刊ハーベスト・タイムvol.380より引用