質問者さんは、教会で祈っていた時に、そこにいた別の方に「預言」されたそうです。教会内の出来事なので、まさかと疑ってはナンだというお気持ち、よく分かります。でも、聖書的に、この時代に預言者は必要なのでしょうか?
テキストで読む
Q. 質問
Q :ある集会で数名で祈っていた時に、そこにいた方が私に向って預言の言葉を語り始めました。その時は、感動したのですが、その後、それをそのまま信じていいのかどうか、不安になりました。預言の賜物は、今もあるのですか。
A. 回答
A:第69回目で、「預言カフェは信頼できるか」という質問に答えています。今回は、さらに情報を付け加えてお答えします。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、聖霊の賜物は、教会を建て上げるために与えられています。
1コリ13:8にこうあります。 「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます」 。預言、異言、神の真理を知る特別な知識などは、聖霊の賜物です。ここでパウロは、愛の永遠性と、聖霊の賜物の一時性を比較しています。つまり、聖霊の賜物はいつかすたれるということです。では、預言の賜物がすたれるのはいつでしょうか。これが、今私たちが取り上げているテーマです。
2番目に、預言の賜物は、新約聖書の完結とともにすたれました。
預言の賜物とは、神の啓示を聞いて、それを信者に伝える能力のことです。そこには、将来の出来事を予告することも含まれますが、基本は真理を伝える能力のことです。教会時代の初期においては、新約聖書が未完成でしたので、預言の賜物が必要でした。その時代、神は活発に新しい啓示を与え続けておられました。
新約聖書が完成して以降は、預言の賜物を行使する必要がなくなりました。2ペテ2:1に、このことに関するヒントがあります。 「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。・・・」 。旧約時代には、預言者が用いられましたが、新約時代には教師が用いられます。旧約時代には、イスラエルの民の中から偽預言者が出現しましたが、新約時代には、クリスチャンの中から偽教師が現れます。
3番目に、今の私たちにとって大事なのは、聖書のみに聞き従うことです。
ユダ3節にこうあります。 「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました」 。聖書に書かれていることは、「聖徒たちにひとたび伝えられた」 真理であり、それに付加したり、削ったりしてはならないものです。「聖書のみ」というのは、プロテスタント信仰の根本にある確信であり、告白です。もし、「神から新しいメッセージが与えられた」と言う人が現れたなら、私たちは用心しなければなりません。特に、「神はあなたに〇〇と命じておられる」と言われた場合は、「聖書のみ」の原則に立ち帰るべきです。
A. 回答
参考になる聖句
「 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました」(ユダ3)
預言の賜物は、新約聖書の完成とともにすたれました。
もっと詳しく知りたい方は
Q.61 ある女性伝道師が、あなたの中のサタンを追い出すと言って「サタンよ、出て行け」と数回叫びました。クリスチャンには聖霊が宿っているのに、サタンが住みつくのでしょうか。
Q.189 礼拝のときに降ってくる金粉をどう考えたらよいですか。
▲そのほか、教会内での不思議な(不審な?)出来事に関する記事はこちらです。