今回のご質問にあったのは「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という言葉を含む聖書箇所です。この箇所は一般的にも有名で、クリスチャンとは弱々しく、何をされても自己防衛してはいけないようなイメージがひとり歩きしているかもしれません。でもこの箇所、前後の文脈や語られた当時の時代背景を理解することがとっても大事。ヘブル的聖書解釈の重要性が、よくわかるQ&Aです。
テキストで読む
Q. 質問
Q:マタイ5章39節から42節までの内容を読みますと、自分の財産を盗む者を放置し,また自分に危害を加える者に対する自己防衛を禁止しているように思いますが、これは正しい解釈なのでしょうか。
A. 回答
A:ご質問の聖句は、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」ということばを含む箇所ですね。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、この箇所は自己防衛を禁止したものではありません。
聖書を解釈する際、最も重要なのは文脈です。この箇所でイエスは、モーセの律法とご自分の教えを対比させておられます。モーセの律法は、一定の限度内での報復を許していました。それが、「目には目で、歯には歯で」という命令の意味です。ところが、イエスの時代になると、その命令が報復を要求する根拠として悪用されるようになっていました。そこでイエスは、復讐しようという思いから解放されることの重要性を説かれました。従って、この教えは、悪や不正を容認せよということではありません。むしろ、物に対する執着心から解放される必要性を説いたものです。
2番目に、聖書は自己防衛の権利を否定していません。
ルカ22:36でイエスは弟子たちに、「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」と言われました。 なぜなら、敵の手がイエスだけでなく弟子たちにも迫っていたからです。イエス自身は無抵抗のまま逮捕され、次に十字架に付けられます。しかしイエスは、弟子たちが剣を持つことは許されました。つまり、弟子たちの自己防衛の権利を認めたということです。
3番目に、自己防衛を実行する場合は、知恵が必要です。
防衛する力があるからと言って、好き勝手にそれを用いてよいということではありません。先ほどのルカ22章の続きを見ると、ペテロがイエスを守ろうとして剣を振い、大祭司のしもべの右の耳を切り落とすという事件が起きています。そのときイエスは、「やめなさい。それまで」と言い、耳にさわってそのしもべを癒やされました。 イエスが逮捕され、十字架にかけられるのは、神の計画でした。ペテロの行動は、法律的には正当防衛ですが、霊的には神の計画に反するものです。
現実生活の諸問題に対処するために必要なのは、知恵です。自己防衛の問題も、知恵を必要としています。防衛する力があるからと言って、それを実行するのがよいとは限りません。戦うことに時があり、戦わないことに時があります。このことに関して、神からの知恵を求めようではありませんか。
参考になる聖句
「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある」(伝道3:8)
自己防衛には知恵が必要です。
もっと詳しく知りたい方は
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある(伝道者の書 3:8)