「我が子も救われて欲しい!」これはクリスチャンの親の切なる願いかもしれません。しかし結論を先に書いてしまうと、幼児洗礼にはなんの意味もなく、聖書的な行いではありません。にもかかわらず、どうしてこれほど幼児洗礼が普及しているのでしょうか?その歴史的経緯と、幼児洗礼を勧めている人々の神学的根拠について見ていきます。
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Q. 質問
Q:幼児洗礼を実行している教会が多数ありますが、それは聖書的な行いでしょうか。
A. 回答
A:幼児洗礼については、それを支持する教会と否定する教会があります。とは言え、洗礼に関する聖書の教えが曖昧だからそうなっているわけではありません。聖書は、洗礼を受けるのはイエス・キリストに対する信仰を告白した人だけであることを、明確に教えています。従って、幼児洗礼は聖書的な行いではありません。幼児洗礼に関して、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、幼児洗礼の歴史的経緯を見てみましょう。
聖書には、幼児洗礼に言及した箇所はありません。つまり、初代教会においては、成人だけが洗礼を受けていたということです。歴史家によれば、幼児洗礼は紀元3世紀頃には行なわれていたと言われています。今と違って、乳幼児の死亡率が高い時代でしたので、大人になる前に死んでも天国に行けるように、幼児洗礼を授けたのです。その背景には、「洗礼によって救われる」という誤った認識があります。現在、幼児洗礼を実行している教会は、広範囲にわたっています。カトリック、東方正教会、聖公会、ルーテル派、長老派、会衆派、改革派、メソディストなど。ちなみに、幼児は死ぬと神の恵みによって天に召されると考えるのは、十分に聖書的だと思います。
2番目に、幼児洗礼の神学的根拠を見てみましょう。
幼児洗礼を実行する人たちは、割礼と洗礼の類似性を主張します。割礼とは、ユダヤ人の男児が生後八日目に受ける儀式ですが、これによってその子は、アブラハム契約とモーセ契約につながるようになります。それと同じような意味で、幼児洗礼を受ける子は、新しい契約につながるようになるというのです。
この説明にはいくつかの問題点があります。①聖書には、洗礼は新しい契約のしるしだという教えはありません。人は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。②割礼は幼児本人ではなく、両親の信仰を告白する儀式です。それに対して、洗礼は信仰を持った本人の信仰を告白する儀式です。
3番目に、幼児洗礼と献児式の違いについて見てみましょう。
献児式とは、両親が自分たちの子どもを神に献げ、その子の生涯の祝福を願う儀式のことで、幼児洗礼とは異なります。もし両親がそれを望むなら、献児式を行なうことは推奨されるべきことです。その場合でも、その子は、成長したときに、イエス・キリストに対する個人的な信仰を告白する必要があることは、言うまでもありません。
参考になる聖句
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:19~20)
洗礼は、キリストを信じた人が、従順のしるしとして受けるものです。それゆえ、幼児洗礼を授けても、なんの意味もありません。
もっと詳しく知りたい方は
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:19~20)
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