聖書入門.com > 3分でわかる聖書 > 聖書は奴隷制を容認しているのですか。

2020

07.06

Q.251 聖書は奴隷制を容認しているのですか。

「当時の時代背景・文化を知り、ユダヤ的視点で聖書を読む」このことに慣れてしまうとつい忘れがちな感覚ですが、例えば初めて聖書を開いたときいきなり壁に感じるのは、こういう部分かもしれません。聖書時代の奴隷と、現代人が思い描くような奴隷とは、かなり違っていたようです。

テキストで読む

Q. 質問

Q:聖書を読んでいて、聖書が奴隷制を容認しているかのような印象を持ちました。奴隷制は罪だと思いますが、なぜ聖書はそれを糾弾しないのですか。

A. 回答

A:奴隷制は、過去の話ではなく、極めて現代的なテーマです。今でも、世界には、なんらかの形で奴隷状態に置かれている人たちが2700万人もいると言われています。このテーマについて、いつものように3つ申し上げます。

1番目に、聖書時代の奴隷は、人種に基づくものではなく、経済的要因に基づくものです。

ユダヤ人たちがエジプトで奴隷となったのは、悲劇的なできごとでした。もちろん聖書は、そのような奴隷制を否定しています。ここでは、新約時代のことを考えてみましょう。その当時の奴隷は、今の私たちが「奴隷」という言葉から連想するものとは、大いに異なっていました。当時は、経済的に破綻し、借金を返済できなくなったり、家族を養えなくなったりすると、自分を奴隷として売りました。ローマ時代においては、家庭教師、医者、弁護士、政治家などの奴隷がいました。生活を保障してもらえるので、自ら進んで奴隷になる人たちもいました。以上のことを背景に、聖書は、奴隷を正当に扱うようにと主人に命じています。

2番目に、過去数世紀の間に現れた奴隷は、人種に基づくものです。

近年の奴隷制は、すべての人は神によって造られた平等な存在であるという聖書の教えに反しています。16世紀から18世紀にかけて、アフリカの黒人たちは、誘拐され、奴隷商人の手によって売られ、アメリカ南部の農場で働かされました。これは間違いなく罪です。出エジプト21:16には、こうあります。「人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない」。1テモテ1:9では、人を誘拐する者は、殺人者と同一視されています。以上のことから、近年の奴隷制に関しては、聖書は明確にこれを禁止していることが分かります。

3番目に、聖書は社会改革のためではなく、救いの道を示すために書かれました。

聖書が強調するのは、内面の変化の必要性です。つまり、外側に出た罪の行為は、すべて内面にある罪が原因になっているということです。クリスチャン生活において必要なのは、内から外への変化であって、その逆ではありません。神と和解した人が増えるなら、その社会が抱える問題の量は減少して行きます。新生したクリスチャンなら、奴隷制に反対するはずです。内から外への変化は緩やかなものかもしれませんが、それは、恒久的な秩序をもたらす力となります。聖書は、間接的に現代の奴隷制を否定しています。

参考になる聖句

「主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです」 (エペソ6:9)

聖書は、間接的に現代の奴隷制を否定しています。