今日の聖書の言葉

レシピ7 「質問力」の法則

質問力とは?

耳慣れない言葉かもしれませんが、「質問力」という概念自体は古くからあるものです。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「相手に質問を投げかけることによって真理を探求する」という方法を確立した人物です。彼は、知者や賢者と呼ばれている人たちを訪ねては熱心に質問をし、その結果、ある結論に到達します。それは、「彼らは自分が無知であることを知らないが、私は自分が無知であることは知っている」というものです。

ユダヤ式教育法でも、質問力は重視されます。ユダヤ教のラビ(教師)は、質問をすることによって生徒を真理に導こうとします。その際、年少者から当てていくのが普通のやり方です。年長者や学識豊かな者が先に答えると、年少者は萎縮して自分の考えを披露できなくなるからです。さらに、ユダヤ式教育法では、良い質問をする生徒が良い生徒とみなされます。私にも経験がありますが、セミナーなどで「何か質問はありますか」と問われても、なかなか訊きづらいものです。本質が理解できていないなら、良い質問をするのは不可能です。「何を聞いていいのか分からない」というのが、大半の受講生の本音なのかもしれません。

イエスの教授法とは?

バイブルの中の『福音書』と呼ばれる書を読むと、イエスがよく質問をしていることに気づきます。ある時は弟子たちに、ある時は論敵に対して、質問を投げかけています。実は、イエスは当時のラビ的教授法の伝統に則って対話を進めているのです。「ラビ」というのは、ユダヤ教の教師のことです。
イエスの質問の中でも代表的なものが、弟子たちに投げかけたこの質問です。
「人々は人の子をだれだと言っていますか」
「人の子」とは、キリスト(メシア)を意味する専門用語で、ここではイエス自身を指しています。それに対して弟子たちは、興奮気味にこう答えています。
バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています」

イエスが弟子たちにこの質問をした理由は、他人の評価を気にしていたからではありません。本当の目的は、別のところにありました。それが次の質問です。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

イエスが急に自分たちの意見を訊いてきたので、弟子たちは驚いたと思います。「わたしがキリスト(メシア)だ」とは言わずに、「あなたがたはどう思うか」と訊いたのは、弟子たちから正しい答を引き出すためです。すぐに、弟子集団を代表してシモン・ペテロがこう答えています。
「あなたは、生ける神の御子キリストです」
イエスは、質問によって弟子たちから正しい答を引き出し、彼らを真理に導いたのです。

今なぜ、「質問力」が必要なのか?

では、ギリシア哲学やユダヤ的教育法が重視してきた「質問力」という概念が、なぜ今脚光を浴びるのでしょうか。
私たちを取り巻く社会環境は激変しつつあります。サラリーマンの場合、上司の言うことに従順であれば評価されるという時代は終わりました。「閉鎖社会症候群」にかかっている社員が多い会社には、将来性はありません。これからは、個人の能力が問われる時代です。学歴や経験よりも、その人がどのような資質と能力を持っているかが問われる時代が来ているのです。
過去の慣習や経験にとらわれずに、常により良い方策を模索するためには、「質問力」を身に付ける必要があります。結局、「質問力」とは「物事を論理的に考える能力」のことです。論じているテーマをよく理解していなければ、良い質問をすることができないのは、私たちもすでに経験済みのことです。良い質問をすることは、問題解決に近づくための最善の方法です。

しかし、私たち日本人は、質問することに慣れていません。他と異なることを極度に恐れる私たちは、その場の「空気」に飲み込まれて、疑問に思うことでもそのままにしておくことが多いのです。受けてきた教育にも問題があります。学校では、質問するよりも、先生の言うことを丸暗記した方が良い生徒とみなされてきました。

日本人が持っているこのような特質は、物事がうまく言っている時にはよい方に作用しますが、危急の時には弱点ともなり得ます。日本人が危機管理に弱いというのは、周知の事実です。今は、いかにして危機管理能力を高めるかが問われている時代です。「質問力」を持った人、応用問題に強い人が多く出ることこそ、これからの日本に必要なことです。

「質問力」を高める方法とは?

では、どうすれば「質問力」を高めることができるのでしょうか。
何よりも先ず、「知りたい」と願うことです。本当のことを知りたい、問題解決の方法を知りたい、より良い方法を知りたいと、いつも自分に言い聞かせることです。そうすると、自然に質問する習慣が身に付いてきます。
また、好奇心を高め、どんなことにも疑問を持つことが大切です。子どもはいつも、「なぜこうなるの」と訊いてきます。どんな人でも、幼い頃は好奇心が旺盛です。それがいつの間にか、そうではなくなるのです。「当たり前」を疑ってかかること、その場の「空気」に流されないことなどを、日頃から意識しましょう。

それが会社であれ慈善団体であれ、良い組織というものには議論できる土壌が育っています。もし、質問しづらい雰囲気があるなら、その組織に将来はありません。上下関係が余りにも厳格であるなら、質問する雰囲気は育ちません。また、過去の慣例を重んじ過ぎても、自由な発想が妨げられます。組織の中に閉塞感があると感じているなら、手始めに、同じレベルの者同士で議論することを実行するとよいでしょう。

最後に、質問する場合の注意点を二つ述べておきます。

1. 質問する動機は、本当のことを知りたいという願いである。
真理探究のために質問をするのですから、勝つための議論をしてはなりません。もし相手を負かすための議論になれば、後味の悪い思いをするだけです。

2. 相手の意見に対して質問する場合は、語られた内容とその人の人格とを区別しておく。
つまり、誰が語ったかではなく、意見の内容だけに注目して質問するということです。また、質問は主張に対してではなく、理由付けに対して行わなければなりません。つまり、「あなたがそう思われる理由は、なんですか」と問いかけるのです。純粋な動機からなされた質問は、自分ばかりでなく、相手にも気付きを与えることができます。

質問力に関する私の体験談を書いてみます。
私が初めて海外に出たのは高校3年生の時で、1963年から64年にかけてのことでした(東京オリンピックの開会式を、衛星中継で観た記憶があります)。その年私は、AFS交換留学生として米国カリフォルニア州のアナハイムという町でホームステイしながら、地元の高校に通いました。
当時の私は、カチカチの無神論者でした。幼い頃から父親に「見えないもの、さわれないものを信じたら駄目だ」と言われてきました。終戦を体験した父親にとっては、「結局のところ、自分しか頼れるものはない」というのが実感だったのでしょう。父親の影響を受けた私は、宗教全般を見下し、無神論的な世界観を持つようになっていました。
大阪市生野区という狭い世界で育った私は、その共同体での常識を世界に通用する「普遍的な真理」だと思い込んだままで米国に出かけて行ったのです。「井の中の蛙大海を知らず」とはまさに私のことでした。
アナハイムという町には、私以外に4人のAFS留学生がいました(英国、オランダ、ペルーからは女子学生、コロンビアからは男子学生)。毎月一度、留学生の集いがあり、彼らとの交流が始まりました。ある時その集いの中で、宗教が話題になったことがありました。私は胸を張ってこう主張しました。
「人は死んだらおしまいだ」
これは「生野区の常識」だったのですが、4人の留学生たちはけげんな顔をしました。少し驚いた私は、再度繰り返しました。
「人は死んだらおしまいだ。すべては消えてしまう」
すると、コロンビアから来ていたハイミー君がこう訊いてきました。
「ケン(私の呼び名です)。どうしてそれが分かるのか」
その問いに、私はびっくりしました。そしてこう答えたのです。
「それは常識だよ」
「どこの常識か」
「・・・・・・」
「君は、死んで死後の世界でも見てきたのか。そうでないなら、なぜすべては消えてしまうと言えるのか」
私は絶句しました。この時初めて、私が「常識」だと思っていたことは、世界の舞台に出た時に、必ずしもそうではないことを知りました。後で分かったことですが、私以外の4人の留学生たち全員クリスチャンだったのです。
ハイミー君の質問によって、私は自らの無知を知らされました。

この話はここで終わりません。帰国してから大学に入学し、2年生になった時のことです。同じ寮の部屋に、N君という一人の後輩が入ってきました。その彼がクリスチャンだったのです。N君との出会いを通して、「私はなぜ、神はいないと思っているのだろうか」という問いに取り組むようになりました。また、神の存在を確かめるために、聖書を熱心に読み始めました。その結果分かったのは、私は情報不足のままで「神はいない」という結論を安易に出していた、ということです。まさにソクラテスが指摘したように、「私は自分が無知であることを知らなかった」のです。
それから約2年間の探求を経て、私は聖書の主張を受け入れるようになりました。海外留学の体験と、一人の後輩との出会いが、私の「質問力」を試し、結果的に私の人生の方向性を大きく変えたのです。

「質問力」はすべての人に備わっている能力です。その能力を認識し、育てるなら、新しい視野が開けてきます。

この章のポイント

1. 旺盛な好奇心を持ち、質問する習慣を身に付けよ。
2. 自分の回りに質問しやすい雰囲気を作れ。
3. 相手を負かすためではなく、真理に到達するために質問をせよ。