「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」(マタイ23:8)という聖書箇所からのご質問です。それでは、教会の牧師”先生”や、学校の”先生”はどうなるのでしょうか? 今回は聖書箇所の時代背景や文脈を知らずに読むと意味がよくわからなくなってしまう、そういった事の好例かもしれません。ぜひスッキリさせましょう!
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Q. 質問
Q:聖書でイエス様は、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」 (マタイ 23:8)と言われました。でも教会には、牧師や先生と呼ばれる方がおられます。個人的には、たとえ教えてくださる方であっても、イエス様以外を先生と呼ぶのは抵抗がありますので、出来ればスッキリしたいです。
A. 回答
A:引用された箇所の文脈は、「教師と弟子の関係」です。いつのように3つ申し上げます。
1番目に、「先生」と訳された言葉が「ラビ」であることに注目しましょう。
イエスは、「あなたがたはラビと呼ばれてはいけません」と言われたのです。当時パリサイ人たちは、権威ある称号を求めていました。つまり、公の場で尊敬を受けることが大好きだったのです。イエスは、傲慢で自己中心的な心を戒めました。
2番目に、「ラビ」という称号には大きな権威が伴っていたことに注目しましょう。
ラビという称号を獲得した人は、弟子たちに対して不当とも思えるほどの権威を行使しました。例えば、当時のラビたちは、弟子の職業や結婚にまで決定権を行使していたのです。これでは、ラビが弟子の人生を支配しているのと同じことです。またラビは、弟子の人生で最も大切な人となりました。例えば、もしラビと父親とが同時に誘拐され、身代金を要求されたとします。弟子は父を助ける前に、ラビを助けるための金を集めなければならないとされました。このような考え方をそのまま推し進めていけば、カルト的な集団が出来上がります。イエスが禁止されたのは、ある人が別の人の上に不当な権威を振るうということです。
3番目に、バランスを持った考え方を追求しましょう。
日本の習慣では、相手を尊敬する意味で「先生」という呼称を使います。この習慣とイエスの教えが矛盾するわけではありません。私たちには、バランス感覚が必要です。聖書は、教会内に教師、牧師がいることを認めています。また、主にあって労している人を敬うようにとも教えています。ですから、神のことばを教える指導者を敬うことはよいことなのです。ただし、その人たちがあまりにも大きな権威を行使し始めるなら、それは、「先生」と呼ばれるかどうかよりも深刻な問題です。キリストの弟子だと自認する者は、謙遜を身につけるように努力すべきです。
参考になる聖句
「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません」 (マタイ23:11)
キリストの弟子は、謙遜を追い求めるべきです。
もっと詳しく知りたい方は
ローマ人への手紙 49 (アウトラインPDF)
▲クリスチャンと、国家など地上の権威との関係性について語られたメッセージです。
#162 「私の名によって祈れ」と命じるのは、罪ですか。
▲こちらは「先生」が暴走してしまった深刻な例です。