2017
10.02
Q.140 人間の内面は霊とたましいに分割可能ですか。
聖書には、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(第一テサロニケ5:23)」とあります。そこで、霊とからだは分かるとして、たましいとは一体なんなのでしょうか。というご質問です。編集Mは、これまで何の疑問もなくこの箇所を読んでいたので、ご質問を拝見してなるほどー、と思ってしまいました。さて、霊とたましいは何が違うのでしょうか。
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Q. 質問
Q: 聖書には、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(第一テサロニケ5:23)」とありますが、霊とからだは分かるとして、たましいとは一体なんなのでしょうか。聖書ではなんと説明されているのでしょうか。
A. 回答
A:この質問は、人間の内面が霊とたましいに分割可能なのか、もし可能だとしたら、霊やたましいとは、どういうものなのか、というものです。このテーマに関しては、断定的な発言は控えるべきだと思いますが、私なりに3つ申し上げたいと思います。
1番目に、人間は、体、霊、たましいという3つの部分から成っていると主張する人がいます。
つまり、人間の内面は、霊とたましいに分割可能だということです。しかし、聖書に「霊」という言葉と「たましい」という言葉が出ているからと言って、人間の内面が二分割可能だということにはなりません。
聖書では、人間の内面を指すために種々の言葉が用いられています。①「生きもの(a living soul)」(創2:7)、②「霊(spirit)」、③「たましい(soul)」、④「心(heart)」、⑤「心(mind)」、⑥「良心(good conscience)」など。
これらの言葉は、意味が重複しており、厳密に定義するのは困難です。そう考えると、「霊」と「たましい」という言葉を基に人間の内面を二分割することは、聖書が意図するところではないと思われます。
2番目に、人間は、体と、目に見えない内面の2つの部分から成っていると主張する人もいます。
その場合は、人間の内面は統一体であり、分割不可能だということになります。その説を支持していると思われる聖句が、いくつかあります。創世記2章によれば、外面の体は「土地のちり」から創造され、内面のいのちは「神の息」を吹き込まれて生き始めました。さらに、使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(2コリ4:16)と書いています。「外なる人」とは体のことであり、「内なる人」とは内面のいのちのことです。
3番目に、人間の内面は分割不可能な統一体であると考えるのが、聖書的だと思われます。
これは、ヘブル的人間観でもあります。その場合は、人間の内面の活動の諸相を指すために、「霊」、「たましい」、「心」、「良心」などさまざまな用語があると考えれば矛盾はなくなります。ちなみに、体と内面のいのちが分離することが、肉体の死です。人間の場合は、肉体が死んでも内面のいのちは生き続けます。それゆえ、肉体の復活が可能になるのです。
参考になる聖句
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(2コリ4:16)
聖書的人間観は、「肉と霊を持った統一体」です。
もっと詳しく知りたい方は
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(第二コリント4:16)
▲ご質問の内容とはちょっと違いますが、からだと内面のいのちは、分離可能です。だからこそ、キリストの復活や肉体の復活などが可能になります。