レシピ17 「自由」の法則

もし誰かが事故で両手両足を失ったとします。その人は、もはや人間ではなくなるのでしょうか。そんなことはありません。いかに肉体的にハンディを負ったとしても、その人はあくまでも人間です。人間を人間たらしめている要因の一つは、自由です。もし私たちから自由が奪われたとするなら、私たちはロボットのようになってしまいます。
バイブルにはこうあります。

「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう』と仰せられた」

人間が「神のかたち」に造られたということは、自由を持っているということでもあります。全体主義や独裁体制が忌むべき制度である理由は、人間存在の基本であるこの自由を奪い、私たちを束縛の中に閉じ込めるからです。では、自由主義国家の中で生活しているだけで、人は自由になれるのでしょうか。必ずしもそうとは言えません。なぜなら、人は自分が自由人であることを意識し、日々努力しなければ、本当の意味での自由人とはなれないからです。

安息日と自由の民

バイブルの中の「福音書」を読むと、イエスとパリサイ人律法学者)の論争の場面が頻繁に出てきます。論争の内容は、モーセの律法をどう解釈し、どう実践するかという法律論争ですが、特に目立つのが「安息日論争」です。これは、非ユダヤ人(異邦人)である私たちには、なかなか理解するのが難しいテーマです。

ユダヤの安息日は、週に一度、土曜日にやって来ます。より厳密には、金曜日の日没から安息日が始まり、土曜日の日没まで続きます。バイブルでは、一日は日没から始まるのです。今でもユダヤ人たちは、安息日になると「労働」から離れ、休息の時を過ごします。最近では、世俗的なユダヤ人たちは昔のように安息日を守らなくなっていますが、それでも大半のユダヤ人たちがこの伝統を大切にしています。

私はたびたび「聖地旅行」を企画し、人々を聖書の地に案内していますが、イスラエルを訪問する楽しみの一つに、安息日があります。
金曜日の午後一時過ぎにエルサレムのメインストリートに立つと、店という店がすべて閉店の準備に入っているのが目に入ります。人々は早足で家路に向かい、すでに人影はまばらになりつつあります。午後四時を過ぎると、文字通り、「人っ子一人いない」状態になります。これがエルサレムの安息日です。

ユダヤ人が安息日を重視するようになったのは、出エジプトの出来事以降のことです。
その頃、ユダヤ人たちはエジプトで400年間奴隷状態にありました。その悲惨な状態から彼らを救うために神によって立てられたのが、モーセです。モーセに率いられたユダヤ人たちが、二つに割れた紅海の真中を歩いて渡ったという故事は、映画『十戒』を観た人には御馴染みの光景でしょう。エジプトを出て自由の民となったユダヤ人たちに、荒野でいわゆる「モーセの律法」と呼ばれるものが与えられます。「十戒」と呼ばれる戒めは「モーセの律法」の一部で、その中に安息日の規定が出てきます。
この時点で、ユダヤ人たちに安息日の規定が与えられたことには、大きな意味があります。古代世界で、週に一度、休息の日を守った民がいたという事実は、驚くべきことです。エジプトを脱出したユダヤ人たちには、未だに奴隷根性が残っていました。奴隷なら、1年365日、毎日が労働の日です。それに対して、週に一度休めるというのは、自由の民とされたしるしであり、証拠です。ユダヤ人たちは、自らが「自由の民」となったことを確認するために、土曜日を安息日として守るようになったのです。

安息日の意味

本来、安息日はよいものです。しかし、時が経つにつれて、その意味を曲解し、律法主義によって人々を束縛しようとする指導者たちが登場してきました。その代表格がパリサイ人です。イエスは本来の安息日を回復するために、パリサイ人と戦いました。
安息日の本当の意義は、次の四点にまとめることができます。

1. 安息日は、自分を取り戻す日です。
私たちには、日々の多忙な生活から自分を解き放ち、「我に返る」ための時間が必要です。もし休む間もないほど忙しいとするなら、その人は奴隷のような生活をしているのです。まさに「仕事の奴隷」、「お金の奴隷」、「時間の奴隷」です。定期的に休息の日を持つということは、自分が自由人であることを告白する行為です(もちろん、ユダヤ人のように土曜日でなくてもよいのです)。

2. 安息日は、家族とのきずなを確認し、回復する日です。
ユダヤ人にとっては、金曜日の夕食は最も大切な食事です。家族全員が食卓に集い、家長である父親が祭司の役割を果たして、食前の祈りを捧げます。ユダヤ人の家族の結束力は、ここから生まれるものです。私も安息日の食事に招かれたことが何度かあります。あるユダヤ人の家庭では、長女が兵役に就いていましたが、彼女は金曜日の夕方になると毎週、ガリラヤ地方から3時間ほどバスに乗ってエルサレムの実家に戻ってきていました。安息日の夕食宅に就くためです。

3. 安息日は、自然界との調和を回復する日です。
この日には、火を燃やすことは禁じられます。また、自然界に手を加えることも控えなければなりません。自然を今ある状態に保ち、自分も自然界の一員であることを確認するのです。

4. 安息日は、神との調和を求める日です。
自分を取り戻し、家族とのきずなを確認し、自然との調和を回復したなら、最後は神との関係を正す番です。自分が「神のかたち」に造られ、自由意志を与えられていることを神の感謝するのです。

2000年間にわたって迫害に会ってきたユダヤ人たちは、どうして生き延びることができたのでしょうか。ある人は、その理由をこう説明します。「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守ったのだ」と。
彼らは、世界のどこに住んでいても、毎週毎週、安息日を守り、ユダヤ人としてのアイデンティティーを保持し続けてきました。これは、自分たちが自由の民であることの表明でもありました。

現代版安息日

多くの人が、「思い通りに生きれば幸せになれる」と考えていますが、そうではありません。現実的な目をもって周りを眺めれば、それがそうでないことはすぐに分かります。
血を吐くほどの自己鍛錬と練習を経ずして大成したアスリートなど、どこにもいません。怠惰な生活に明け暮れるなら、好成績を残すどころか肥満体になって選手生命は終わりを告げます。それと同じように、人生において何かことを為そうとするなら、精神的な意味でも実際的な意味でも、自己鍛錬が必要です。

自由とは、「なんでも好きなことをする自由」ではなく、「意味あることを選び、それを実行する自由」です。それができないなら、私たちは自由なのではなく、何かの奴隷になっているのです。
自由人として生き続けるためには、「静思の時」が必要不可欠です。そのためには、自分なりの「安息日」を持つ工夫をする必要があります。仕事以外に趣味を持つことや、家族とともに過ごす時間を確保することや、ボランティアとして奉仕することなどは、現代版「安息日」と言えるでしょう。

この章のポイント

1. 自由人としての特権を行使し、休息の時を確保せよ。
2. 自分を取り戻すために、「静思の時」を持て。
3. 自分に与えられている自由を、意味あることを行うために生かせ。