レシピ14 「赦し」の法則

自分を傷つけた人を赦すのは、容易なことではありません。
犯罪のことを考えてみましょう。加害者を正義の法によって裁き、償いをさせるのは当然ですが、それ以外にも大切なことがあります。それは、加害者と被害者(あるいはその家族)との間の和解です。これが重要ではあることは誰でも分かりますが、実際は、これほど困難なことはありません。

私も、ある殺人事件の裁判を名古屋高裁で傍聴したことがあります。その裁判では、死刑の判決が出ました。珍しいことですが、判決直後に、被害者の遺族と検察官とが握手をしていました。遺族の方々が、どれほどの悲しみと痛みを通過してきたかを垣間見ることができました。
では、犯人が死刑判決を受けた結果、遺族の方々の心は癒されたのでしょうか。決してそうではありません。その証拠に、テレビ取材を受けた遺族の方々は、依然として涙ながらに「亡くなった者は帰ってこない」と答えていました。

「亡くなった者を返せ」、「犯人を死刑にせよ」、「死んでも赦さない」、これが遺族感情というものでしょう。当然です。本当によく分かります。犯人たちには、「どうしてこうなる前に、立ち止まって考えなかったのだ」と言いたくなります。しかし、いくらもがいても、状況は何も変わらずに時間だけが過ぎていきます。

すべての人が、多かれ少なかれ、このような体験をしているはずです。人は、傷つけたり、傷つけられたりしながら、生きているのですから。何かが変わらない限り、私たちの心から痛みが消えることはありません。では、その「何か」とはなんでしょうか。

赦しの力を知る文化

日本の文化では、「赦し」よりも「忘却(水に流す)」の方が強く意識されているように感じます。「時が経てば、いずれ忘れる」というのが、日本人の一般的な解決法でしょう。
ところがその方法は、毒性のある産業廃棄物を土の中に埋めて処理するようなもので、やがて土壌汚染というより深刻な問題につながります。埋められた痛みは、私たちの情緒に悪影響を与え、人生にさまざまな障害をもたらします。それは人生観をゆがめ、人間関係を破壊します。
欧米の文化では、意識的に「赦し」を実行することによって、悲劇そのものに積極的な意味を与えようとするケースが、日本文化の場合よりも多いように感じます。たとえば、こういう話を読むと私は大いに考えさせられるのです。

1956年1月、5人の宣教師が南米エクアドルに宣教に出かけ、ジャングルの中で、現地のアウカ・インディアンによって刺し殺されるという事件が起こりました。
5人の宣教師とは、ジム・エリオット、ピート・フレミング、エド・マッカリー、ネイト・セイント、ロジャー・ヨウデリアンです。
目撃者の証言では、宣教師たちは銃を持っていましたが、インディアンから攻撃されても、その銃を使わないことに決めていたそうです。宣教師たちは、「私たちには天国に行く準備ができているが、彼らにはまだその準備ができていないから」と語っていたそうです。
殺された宣教師の家族たちは、アウカ・インディアンを赦したというしるしに、アマゾン流域に戻り、そこで生活を始めました。そして彼らの宣教活動によって、ついに現地の人々はイエス・キリストを信じるようになったのです。

なぜ宣教師たちの家族は、現地の人たちを赦すことができたのでしょうか。普通なら、そこに戻っていくだけでも恐ろしいはずなのに、なぜ彼らは戻っていたのでしょうか。
バイブルは赦しについてこう教えています。

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」

これは、人を赦すことが天の父から赦されるための条件であると、教えているのではありません。事実はその逆です。自分が天の父からどれほど多くの罪を赦されたかを知っているなら、人を赦すことができるはずだ、というのがその意味です。
宣教師の家族たちは、天の父から赦された者として、赦しを伝えるためのそこに戻って言ったのです。

憎しみの悪循環を断つ

米国での公民権運動の指導者であったマルチン・ルーサー・キング牧師は、「憎しみの悪循環を断つ」というテーマで、次のように語っています。

「ある夜、私と弟はアトランタからテネシー州のチャタヌーガへ向かっていた。弟が車を運転していた。どういうわけかその夜は、運転の荒っぽい車が多かった。ライトを下げてくれる対向車など一台もなかった。とうとう弟は怒って、『次に来る車がもしライトを下げなかったら、こっちもライトを下げてやるものか。一番明るくして照らしてやるぞ』と言った。私は急いで彼をたしなめた。『ダメだよ、そんなことやっちゃ。そんなことをしたら、両方とも破滅だ。この高速道路を走っている誰かが冷静でいなければ』

こういう時にも、分別をもってライトを下げる人がいなければならないが、これがなかなか難しい。歴史という高速道路を走る世界の諸文明のことを考えてみよう。他の文明がライトを下げないのを見て、自分たちも下げようとしなかった文明がいかに多かったか。トインビーは言う。歴史に現れた22の文明の中で、7つの文明以外はすべて滅びてしまったと。それらの文明には、ライトを下げるだけの分別がなかったからだ。

もし誰かがこの世界に、ほのかで美しく、しかも力ある光、つまり愛という光を灯そうしないなら、私たちの文明も破滅の底なし沼に落ちてしまうだろう。そして私たちも、歴史というハイウェイで知恵を働かせなかったために、滅びてしまうのだ。
暴力は暴力を、憎悪は憎悪を、強情は強情を生むことを人は知るべきだ。これは悪循環となる。人間はらせん階段を落ちて行くように落ちて行き、ついには一人残らず破滅してしまう。だから、誰かが分別と道義とで、世界の憎悪と悪の連鎖を断ち切らなければならない。しかも、愛をもって」

誰かと口論になった場合、争いを静めたいと思うなら、相手よりも音量を下げて話すことです。感情的になって声を荒立てるなら、相手はそれ以上に声を張り上げてきます。相手よりも静かに話せば、やがて相手もその音量で応じるようになります。これは、個人と個人の争いだけでなく、国と国の争いにも適用できる法則です。キング牧師は身をもってそれを示した人物です。

感動を与える生き方

毎年、『最も感動的な人物』賞を出している『ビリーフネット』という団体があります。2005年には、ニューヨーク州在住のヴィクトリア・ルヴォロという婦人がこの賞を受賞しました。以下、受賞理由です。

ある日ヴィクトリアが車を運転していると、フロントガラスを突き破って9キログラムもある冷凍の七面鳥が飛び込んできました。犯人は、ライアン・クッシングという19歳の青年でした。彼は、盗んだクレジットカードを使って大量の買い物をし、仲間とともに帰ってくるところでした。面白半分に、冷凍の七面鳥を対向車に向かって投げつけたのです。ヴィクトリアは病院に運びこまれ、10時間に及ぶ顔の整形手術を受けました。それから何ヶ月間も、苦痛を伴うリハビリ訓練が続きました。

2005年10月17日、ライアンを裁く法廷に出廷したヴィクトリアは、判事に情状酌量を要請した後、犯人にこう語りかけました。
「確かに痛みと恐怖をともなう体験でした。でも、この事故を通して私は多くのことを学びました。毎朝目覚めると、自分が生かされていることを神に感謝しました。ライアン君、あなたもこの事故から多くの教訓を学んだと思います。私は復讐を願ってはいません。あなたに長期刑を科すことは、私にとっても、あなたにとっても、また社会にとっても、益になるとは思いません」
ライアンは涙を流し、自らの愚かな行為をわびました。判決は、6か月の懲役刑にとどまりました。もしヴィクトリアの要請がなければ、25年の刑が出されていてもおかしくない状況でした。
ヴィクトリアはこうも付け加えました。
「私はあなたに対して憐れみの心を示しました。あなたに、立派な人生を歩む人になって欲しいからです。そうなれば、私が通過した痛みの経験には意味があったことになるのです。ライアン君、どうか私の判断が正しかったことを立証する生き方をしてください」

赦しを実行する人とは、世に感動を与える人なのです。

この章のポイント

1. 赦しは、憎しみの悪循環を断つ力である。
2. 赦しは他人だけではなく、自分自身をも解放する。
3. 赦しは、人に感動を与える力である。