質問者さんは、幼い頃からの経験により人間不信なところがあり、イエス様に対しても「信じきる」ということが難しいのだとか。信仰は、どうやって確固たるものになっていくのでしょうか。
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Q. 質問
Q:私は洗礼を受けて約20年近くになる、56 歳の女性です。本当に十字架の事を理解していたのか、今現在もどうなのか、自分の心の中が分からない状態で過ごしています。物心ついた頃から、傷つけられた経験が多くあり、人を信じられなくなりました。イエス様に対しても、信じ切りたいのに信じ切ることが出来ないのです。どうすればいいですか。
A:私自身も、自分がどのようにしてイエス・キリストを信じたのか、よく分かっていません。納得いただけるように答える自信はありませんが、考え方のヒントになることを願いながら、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、信仰は自分で作り出すものではありません。
「信じ切りたい」とありましたが、人間の頑張りで信仰を得ようとするのは、間違いなく不毛の道です。過去の悲しい体験が信仰の妨げになっているとの自覚をお持ちのようですね。お気持ちは分かりますが、人間関係の中で経験したことを、イエス・キリストとの関係に投影するのは、少し違うような気がします。なぜなら、苦しい経験をしたので、イエス・キリストを信じるようになったという人が大勢おられるからです。
2番目に、信仰は神から与えられる賜物です。
ペテロとヨハネは、こう言いました。「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」 (使4:20)。イエス・キリストが十字架で死に、墓に葬られ、3日目に復活したというのは、歴史的事実です。 ロマ10:17でパウロはこう書いています。 「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」。 つまり、聖書のことばを理解しなければ信仰は生まれて来ないということです。日々聖書を読み、その内容について黙想し、祈りましょう。信仰は、神のことばへの応答として自然に心に生まれて来るものです。これは、聖霊の働きによるものです。
3番目に、信仰は日々成長するものです。
この方は、「信じ切りたい」と言われましたが、それは非現実的な願望です。イエス・キリストがどういうお方であるかを理解しないで、信じ切ることなどできません。私たちの信仰は、最初は小さなものです。なぜなら、理解したみことばの範囲が狭いからです。信仰は、聖書を理解する度合いに応じて成長します。恐らくこの方は、すでにクリスチャンになっておられると思います。ただし、霊的幼子の状態が長く続いているので、不安になっておられるのでしょう。大切なのは、信仰も霊的成長も神から与えられる賜物だということを認識することです。どうか、日々聖書を読み、その内容について黙想し、祈ってください。救いも信仰の成長も、ともに恵みによって与えられるものです。
参考になる聖句
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」 (ローマ10:17)
信仰は、神から与えられる賜物です。