第6課「神の国の市民として」(後半)

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」(マタイ5:14)

 人は、正しい自己像(セルフ・イメージ)を持っていなければ、豊かな人生を歩むことができません。前課では、クリスチャンは霊の幼子であることを学びましたが、この課では、天国の市民であることを学びます。(セッション後半)


第6課の絵の概念

第6課「神の国の市民として」

1. 山上で説教するイエス:イエス・キリストは、神の国の王として来られました。

2. 人々の中央に位置するイエス:イエス・キリストは、神の国のいっさいの権威を持っておられます。

3. イエスを取りまく8 組の人々:神の国の市民は、この世と区別されています。

(1)ダビデ:心の貧しいものは幸いです。
(2)ヨブ:悲しむ者は幸いです。
(3)モーセ:柔和な者は幸いです。
(4)パウロ:義に飢え渇いている者は幸いです。
(5)良きサマリヤ人:あわれみ深い者は幸いです。
(6)ステパノ:心のきよい者は幸いです。
(7)バルナバ:平和をつくる者は幸いです。
(8)ダニエルの3人の友人:義のために迫害されている者は幸いです。

スピーカー:中川健一

聖書箇所:マタイ5:14

収録日:20080825

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イントロダクション

 人は、正しい自己像(セルフ・イメージ)を持っていなければ、豊かな人生を歩むことができません。前課では、クリスチャンは霊の幼子であることを学びましたが、この課では、天国の市民であることを学びます。
 学びの前提として、次の点に注意しましょう。

「この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た」(マタイ5:1)

・山上の説教は、律法による救いを説いたものではない。
・山上の説教は、弟子たちに語られたものである。


3. 神の国の市民は、この世と区別されています。

 神は、神の国の市民に対して、この世の民とは異なった生活様式、価値基準、倫理基準を要求されます。神の民であるイスラエルは、この世と分離した生活を始めたとき祝福を受け、この世と同化したとき滅びへと向かいました。
 ・アブラハムの召命 (創世記12:1〜3)
 ・出エジプトの体験 (レビ18:1〜4)
 ・王政の移行 (Ⅰサムエル8:5,19,20)
 ・偶像礼拝の罪 (エゼキエル20:32)
 ・イスラエルの捕囚 (Ⅱ列王記17:7,8)

 山上の説教を理解するためには、以上のような背景を頭に入れておかねばなりません。イエス・キリストは、神の国の市民を、「地の塩」(マタイ5:13)、「世界の光」(マタイ5:14)、と呼ばれましたが、ここには、神の3つの期待があります。
 ・他の部分とは区別されている。
 ・拡散していく性質がある。
 ・良い影響を与えることができる。

 イエス. キリストは、神の国の市民が持つ8つの性質について触れ、そのような人々を、「幸いな人々」と呼ばれました。この「幸い」とは、
 ・主観的に「幸い」と感じるかどうかでなく、客観的な宣言です。
 ・死後来るものでなく、この世にあって味わえるものです。

(1)心の貧しい者は幸いです。 (マタイ5:3)
 心の貧しい者とは、自分の必要を認めることのできる人、悔い改めの心のある人のことです。ダビデは、このような性質を持った人物です。
 ・主の戦士     (Ⅰサムエル17:47)
 ・恵みを受けた罪人 (詩篇32篇、51篇)
 ・詩人       (詩篇23篇)

(2)悲しむ者は幸いです。 (マタイ5:4)
 クリスチャンライフは、バラ色の人生とは異なります。クリスチャンであっても問題に直面します。また、信仰者であるがゆえの問題もあるのです。そのようなとき、ヨブを思い出しましょう。彼は、その苦しみの中から、次のようなレッスンを学びました。
 ・試練は罪の結果だと考えてはいけない。
 ・人の言葉は助けにならない。
 ・神の恵みは十分である。

(3)柔和な者は幸いです。 (マタイ5:5)
 柔和とは、弱さのことではなく、自己制御できる能力のことです。また、客観的に自己を評価できる人のことです。モーセこそ、この条件にピッタリの人物です。

「 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12:3)

 ・エジプトでの40年間(自己能力の開発)
 ・ミデアンでの40年間(無力さの発見)
 ・出エジプトの40年間(柔和な性質の開花)

(4)義に飢え渇いている者は幸いです。 (マタイ5:6)
 これは、神との関係において、他人との関係において、正しく生きたいと願うことです。義を激しく求めた人として、第1番目に名前を挙げることができるのは、パウロです。
 ・律法の義を求めた人
 ・神の義を知った人
 ・神の義のために燃え尽きた人

(5)あわれみ深い者は幸いです。 (マタイ5:7)
 助けを必要としている人々への配慮が、この「あわれみ」です。良きサマリヤ人は、このあわれみを実際の行動で示した人です(ルカ10:30〜37)。インドのカルカッタで奉仕したマザーテレサは、現代人に対して最も雄弁に「あわれみ」が何であるかを語る神の器です。
 ・自らがあわれみを受けたと知る人
 ・隣人の必要に敏感な人
 ・見返りを期待しない人

(6)心のきよい者は幸いです。 (マタイ5:8)
 これは、裏表なく生きる人、動機まできよい人のことです。この性質を持った人として、私がまっ先に思い出すのは、ステパノです。彼は、聖霊に支配された人物です。
 ・人格が変えられた人(天使の顔をした人)
 ・力に満たされた人(敵を論破した人)
 ・見えないものを見た人(神の右に立つイエスを見た人)

「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』」(使徒7:55,56)

(7)平和をつくる者は幸いです。 (マタイ5:9)
 真理は人々を二分します。そこに争いを作り出します。神第一に生きようと思えば、すぐにこの世からの攻撃を受けます。しかし、だからと言って、クリスチャンは、自ら争いを作り出すものではありません。すべての人々と平和を求めるように教えられています。バルナバは、平和をつくる人でした。
 ・献身の人(使徒4:36,37)
 ・慰めの人(使徒9:26〜30)
 ・赦しの人(使徒15:37)

(8)義のために迫害されている者は幸いです。 (マタイ5:10)
 「神の国」と「この世の王国」との間の戦いがある限り、「迫害」は必ず起こります。クリスチャンがどんなに真実に歩んでも、その真実さのゆえに、「迫害」がやって来ます。ここで思い出すのが、ダニエルの3人の友人(シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ)のことです。

「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません』」 (ダニエル3:16〜18)

 ・迫害に対して心備えができていた。
 ・最後の裁きを神にゆだねていた。
 ・結果にかかわらず、幸いであることを選びとった。

祈ってみよう!

イエス・キリストを心に受け入れるにはどうしたらいい?

今、聖書に書かれている神の救いを、自分のものとして受け取りたいと思いますか?受け取る方法は簡単です!
神様がただ一つの救いの方法として示しておられる、イエス・キリストを心に迎える祈りをしてみましょう。あなたが良い人間である必要も、あなたが頑張り屋である必要もありません。祈り方はボタンをクリック!