からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
紀元55年頃
使徒パウロ
目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:21〜27)
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ここでパウロは、キリストを信じた人々の集まり、教会を体にたとえて次のように語っています。
(1)教会の中で、不必要な器官は一つもありません。お互いがお互いを必要としています。
(2)弱いと見られる器官こそ、かえってなくてはならないものです。それらの器官こそ、尊ばれるべきものです。弱いと見られる器官が与えられている理由は、体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
(3)結論として、26節の言葉が与えられています。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」
「弱いとみられる器官」とは、どういう人々のことを言うのでしょうか。病弱な人、貧しい人、人知れず祈り続けている人、人目につかないところで奉仕をしている人、などが考えられます。聖書の価値基準は、この世のものとは違います。
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