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私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

紀元57〜58年頃

使徒パウロ

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6〜8)

何かに価値があるかどうかは、それを手に入れるために代価をいくら支払うかでわかりますね。あなたの代価として支払われたのは「キリストの死」です。これより高価なものはこの世にはありません。神の目からみれば、あなたにはそれほど価値があるのです。

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(1)ここにある「弱かったとき」とは、神に応答する力がなかったときという意味です。この言葉は、病人に使う言葉です。肉体的に弱いという意味なのですが、それが道徳的な弱さを示す意味で使われています。

(2)「定められた時」とは、あらかじめ決定されていた時という意味です。それは、人類の罪に対する神の怒りが限界に達した時のことです。その時神は、ご自身の怒りを御子イエスの上に注がれました。そのような時に、キリストは私たち(不敬虔な者)のために十字架にかかってくださいました。

(3)「罪人であったとき」とは、神に敵対していたとき、という意味です。神を認めず、自分勝手に生きている状態です。

(4)さらにパウロは言います。「敵のために死ぬ人はいない。正しい人のためでも死ぬ人はいない。情け深い人の場合は、そういう可能性もある」と。キリストの死は、常識ではありえないことです。なぜなら、キリストは私たちが神に逆らって生きる罪人であった時に、死んでくださったからです。それによって神は、私たちに対する愛を明らかにされました。

御子イエスの死によって示された神の愛は、私たち人間には想像すらできないことです。しかし、ひとつだけはっきりしているのは、神は、イエスを十字架にかけてまでも救う価値あるものとして、私たちを見てくださっているということです。

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もっと詳しく知りたい方は

「命の価値」(東京定例会メッセージ)