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今日の聖書の言葉

第2課「自己との出会い」(後半)

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ 7:15)

私はどこから来てどこへ行こうとしているのだろうか。この問いに対して、明確な答えが得られるまでは、人は決して安らぐことはできません。その答えを聖書から考えましょう。(セッション後半)

スピーカー:中川健一

聖書箇所:ローマ 7:15

収録日:20080826

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3. サタンは、人に偽りの解放を与えようと動き回っています。

 苦境に立つ人間に対して、もっともらしい解決が考えられ、提供されてきましたが、そのすべてが、最終的な解放を与えることに失敗してきました。その解決策とはどのようなものであるのか、考えてみましょう。

(1)物質主義は、もっと富を手に入れよと叫びます。
 コマーシャリズムの文明は、神学をもった宗教であると考えられます。そこには儀式性があり、人間の全人的かかわりを要求する力があります。
 また、罪、救いの概念もあります。まさに、近代文明というベールをかぶった宗教そのものです。

(2)人本主義(ヒューマニズム)は、もっと教育を与えよと叫びます。
 人間の知識の量を拡大していけば、いつかは理想郷が到来すると考える人々がいます。しかし、このような幻想は、20 世紀の2つの大戦によって完全に破壊されてしまいました。そして、21世紀は民族紛争の世紀となっています。

(3)律法主義は、もっと善行を積めと叫びます。
 ユダヤ教のパリサイ主義を挙げるまでもなく、人類は、律法によって救いを達成しようと何度も試みてきました。今日の日本でも、同じことがくり返し行われています。しかし、この考え方は、次のパウロのことばによって、全面的に否定されています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」 (ローマ3:20)

(4)神秘主義は、もっと信仰せよと叫びます。
 信じる対象を問題にせず、とにかく信仰を持つことが大切であるとする日本人特有の考え方は、聖書では、「霊的姦淫」として最も忌み嫌われるものです。

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)

 

4. 苦境に立つ人間に対して、神からの解放が与えられています。

 神は決して人間を見捨ててしまわれたのではありません。アダムとエバに呼びかけられた、「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)という声は、今日も全世界に響きわたっています。

(1)人は、光に照らされると痛みを感じます。
 アダムとエバは、なぜ、神の声を聞いたとき身を隠したのでしょうか。人は、どうして、教会に来ることに抵抗を感じるのでしょうか。それは、光に近づくと、痛みを感じるからです。

(2)キリストの救いの手が差し出されています。
 神が、アダムとエバに語りかけたことばは、すべて疑問文でした。彼らを責めるためではなく、救うために神が近づいてくださったのです。神は、どんな人でも、今あるがままで愛し、救ってくださいます。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」 (マタイ11:28)

(3)キリストの十字架こそ真の解決です。
 創世記3 章15 節は、原福音(げんふくいん)と呼ばれるものですが、ここには、それ以降聖書の中で展開される神の救いの計画が予表されています。そして、それは、最終的には、キリストの十字架によってサタンの業に勝利するところまで続きます。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)

 創世記3 章21 節には、キリストの義の衣が予表されています。これは、人間の作り出した朽ちゆく衣とは違い、永遠に朽ちることのない、神からの賜物としての義の衣です。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)

祈ってみよう!

イエス・キリストを心に受け入れるにはどうしたらいい?

今、聖書に書かれている神の救いを、自分のものとして受け取りたいと思いますか?受け取る方法は簡単です!
神様がただ一つの救いの方法として示しておられる、イエス・キリストを心に迎える祈りをしてみましょう。あなたが良い人間である必要も、あなたが頑張り屋である必要もありません。祈り方はボタンをクリック!