第2課「自己との出会い」(前半)

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ 7:15)

私はどこから来てどこへ行こうとしているのだろうか。この問いに対して、明確な答えが得られるまでは、人は決して安らぐことはできません。その答えを聖書から考えましょう。(セッション前半)


第2課の絵の概念

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1. 胸にある光り輝くハート : 人は神のかたちに似せて創造されました。

2. 獄の中で光に背を向けて立つ人 : 創造主に反逆して生きる人間は、あらゆる束縛の 奴隷となっています。

 (1)重荷 :人は、自分の過去を恐れています。
 (2)仮面 :人は、自分を直視することを恐れています。
 (3)隣人との争い :人は、隣人と平和に暮らすことができません。
 (4)財宝 :人は、物質を支配するよりも、物質に支配されています。
 (5)時計 :人は、死を恐れています。

3. 鍵の前で動き回る蛇 :サタンは、人に偽りの解放を与えようと動き回っています。

 (1)第1の鍵 :物質主義は、もっと富を手に入れよと叫びます。
 (2)第2の鍵 :人本主義は、もっと教育を与えよと叫びます。
 (3)第3の鍵 :律法主義は、もっと善行を積めと叫びます。
 (4)第4の鍵 :神秘主義は、もっと信仰せよと叫びます。

4. 窓から差し込む光 : 苦境に立つ人間に対して、神からの解決が与えられています。

 (1)部屋の隅の割れ目 :人は、光に照らされると痛みを感じます。
 (2)差し出された手 :キリストの救いの手が差し出されています。
 (3)手にある十字型の鍵 :キリストの十字架こそ真の解決です。

スピーカー:中川健一

聖書箇所:ローマ 7:15

収録日:20080826

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イントロダクション

 私はどこから来てどこへ行こうとしているのだろうか。この問いに対して、明確な答えが得られるまでは、人は決して安らぐことはできません。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」 (詩篇8:3,4)

 自己とは不可解なものです。使徒パウロは、自己矛盾に悩み、次のように告白せざるを得ませんでした。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」 (ローマ7:15)

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」 (ローマ7:18,19)


1. 人は神のかたちに似せて創造されました。

 人は、進化によって偶然発生したものではありません。創造主の最高の作品として造られ、他の動物には見られない次のような性質を持っています。

 知性…人は理性的に物事を考え、環境を支配し、創造的な仕事をすることができます。

 感情…人は、芸術に感動し、愛し愛されることに充足を見いだす存在です。

 意志…人は、自らの決断によって、自らの人生を選び取ることができます。

 霊性…宇宙の絶対的人格(神)と交わり、この方を喜ぶことができます。

 人の使命は、この地上において神の代理人として生きることでした。

「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』(創世記1:28)

2. 創造主に反逆して生きる人間は、あらゆる束縛の奴隷となっています。

 車がガソリンで走るように、人は神とつながることによってのみ豊かな人生を生きることができます。しかし人は、神に反逆し、自分勝手な道を歩むことを選びました。この神への意図的反逆を、罪と言います。

「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ』」 (創世記2:16,17)

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」 (創世記3:6)

 罪は人をさまざまな束縛の中に陥れました。

(1)人は、自分の過去を恐れています。
 神に反逆したアダムとエバは、神の声を聞いたとき、園の木の間に身を隠しました(創世記3:8)。人は、その道徳性のゆえに、罪責感を負って歩む者となってしまったのです。

「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」(箴言28:1)

(2)人は、自分を直視することを恐れています。
 アダムとエバは、まことの自分の姿を見ることを恐れ、いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作りました(創世記3:7)。いちじくの葉は、むなしい人間の努力を表しています。人は外的な何かで自分を飾らなければ、安心して自己受容できない存在となってしまいました。

(3)人は、隣人と平和に暮らすことができません。
 神から責任追及をされたとき、アダムはエバに、エバは蛇に責任転嫁をしようとしました(創世記3:12,13)。人は、罪の重荷を持ったままで生きていくことができないため、絶えず責任を転嫁する機会をうかがっています。

 健全な自己愛がなければ、隣人を愛することができないという真理は、次のイエス・キリストのことばでもわかります。

「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」 (マタイ22:37 〜 39)

(4)人は、物質を支配するよりも、物質に支配されています。
 物そのものは、決して悪ではありません。しかし、物の誤用が始まるとき、本来善であるはずのものが、人間の尊厳を破壊し、争いを引き起こし、束縛をもたらすものとなります。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)

(5)人は、死を恐れています。
 死がやってくると、その人のすべての可能性に終止符が打たれ、すべての活動が停止します。死は不条理なものです。聖書の中には、自然死という考え方はありません。すべての死は、不自然なもの、悲しむべきものです。そしてすべての人が、意識するとしないとにかかわらず、刑の執行を待つ死刑囚のように生きているのです。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、─それというのも全人類が罪を犯したからです」 (ローマ5:12)

祈ってみよう!

イエス・キリストを心に受け入れるにはどうしたらいい?

今、聖書に書かれている神の救いを、自分のものとして受け取りたいと思いますか?受け取る方法は簡単です!
神様がただ一つの救いの方法として示しておられる、イエス・キリストを心に迎える祈りをしてみましょう。あなたが良い人間である必要も、あなたが頑張り屋である必要もありません。祈り方はボタンをクリック!