2014

11.04

#49 聖書のある部分は信じているが、 ある部分は信じていない、という人でもクリスチャンなのですか?

聖書のある部分や、奇跡は信じないという人は「自由主義神学」という考え方の影響を受けています。でも「聖書のこの部分は本当で、この部分はちょっと違うんです」なんて話だったとしたら、そこに書いてある救いの約束も、本当に大丈夫?となりませんか。さっそく解説をご覧下さい。

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#49. 聖書のある部分は信じているが、ある部分は信じていない、という人でもクリスチャンなのですか。

Q. 質問

先日、創世記1章から11章はそのまま信じていないというクリスチャンに出会いました。聖書のある部分は信じているが、ある部分は信じていない、という人でもクリスチャンなのですか。

A. 回答

確かに、「聖書のある部分は信じていない」とか、「奇跡は信じない」という人がいます。この人たちは、いわゆる「自由主義神学」の影響を受けている人たちです。そこで、自由主義神学について触れてみる必要があります。いつものように、3つ申し上げます。

1番目に、自由主義神学は、人間の理性を重視します。

もっと言いますと、自由主義神学者は、現代科学や現代思想と聖書を「調和」させようとしているのです。その前提にあるのが、「科学的知識こそ誤りのないもので、聖書には誤りがある」という考え方です。しかし、もし聖書に誤りがあるなら、聖書の教える救いは信頼性のないものになってしまいます。そこに自由主義神学の大きな問題があるわけです。

2番目に、自由主義神学は、聖書に記録された奇跡を否定します。

自由主義神学者が否定する代表的な奇跡を、3つ挙げてみます。

  1. 「創世記の天地創造の記事」
  2. 「イエスの処女降誕」
  3. 「イエスの復活」

以上のような奇跡を信じないのが、自由主義神学の特徴です。しかし、もし聖書の奇跡を否定するなら、それはキリスト教ではなくなります。なぜなら、キリスト教はイエスの復活という「歴史的事実」の上に立っている信仰だからです。

3番目に、自由主義神学は、永遠の滅びからの救いよりも、隣人愛を強調します。

彼らは、「罪のさばき」、「永遠の滅び」などの教えは、昔の人たちが考えていたことで、無視してもいいのだと教えます。それよりは、今生きているこの地上において、「人としていかに隣人愛に生きるか」を模索することのほうがより重要だと考えます。そこでは、イエスは単なる「道徳の教師」とみなされます。

しかし皆さん、イエスという方は、「自分は神だ」と宣言されたのです。もしイエスが神だというのが嘘だとしたら、イエスは道徳の教師ではあり得ないということになります。道徳の教師というのは、嘘は言わないはずですから。つまり、イエスについてどのように考えたとしても、イエスが道徳の教師だという選択肢はないということです。イエスは、文字通り「神の子」であるか、あるいは「嘘つき」であるか、あるいは、「誇大妄想狂」であるか、そのいずれかであって、決して道徳の教師ではないということです。

このように見てくると、結論的には、自由主義神学に立つキリスト教は、聖書的キリスト教ではないということが言えます。

参考になる聖句

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」(ヨハネの福音書14:6)

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテへの手紙第二3:16)

もっと詳しく知りたい方は

聖書とはどういう本ですか?(3分で分かる!聖書)

聖書を知りたい人のために(3)
▲聖書が神のことばであるという証拠は何か、聖書に誤りは含まれていないのか、などのテーマに答える内容です。