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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

紀元26〜30年頃のイスラエル

イエス・キリスト

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)

「人生に疲れた。人間関係に疲れた。いろいろ要求してくる窮屈な社会につかれた。全てに疲れた。もう全部投げ出したい。」辛い状況のときには、
「今まで、神は助けてくれなかった」と、諦めにも似た気持ちを持つかもしれません。そんな時・・・?

あきらめないでください!実は、今がチャンスなのです!あなたは、神が働かれる領域に突入したからです!人生の中で最も落ち切ったところで、神(イエス・キリスト)は私たちに出会ってくださいます。それが神の方法だからです。

イエス・キリストは天地を創造した神でありながら、人としてこの地上に生まれ、人類の汚れ、問題をすべて十字架の上で負って死んでくださいました。ですから、キリストだけが、すべての人の重荷を取って「休ませてあげる」ということができるのです。イエス・キリストは、あなたが「落ち切った」「もう死んでしまう」と思っている所よりも、さらに低いところにまで下ってくださり「死の影の谷」であなたと出会ってくださるのです。

心の目を開いて、イエス・キリストを捜してみてください。もし、本気で捜すなら、十字架で死に、三日目に復活し、再び神として天にあげられ、今も生きておられるイエス・キリストに必ず出会うことができます。あなたは、そういう場所に今、立っているからです。そのとき、この聖書の言葉の通りに「重荷を下ろして休む」という体験をするようになります。

まずは、重荷を預けて「休ませてください」という簡単な祈りからスタートしてみてはいかがですか?

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詳しい解説

(1)「疲れた人、重荷を負っている人」とは、どのような人のことでしょうか。ここでイエスは、当時のユダヤの一般市民に語りかけています。

 ユダヤ人には、十戒で有名な、モーセの律法(法律)がありました。しかし、当時のユダヤ教では、その律法を守るために付け加えられたさらに細かい民法のようなもの(口伝律法と言います)があり、生活のあらゆる場面で、ああしろ、こうしろ、○○はダメ!と、民衆にとって負いきれない重荷となっていました。その中でも特に細かいのが「安息日規定」で、安息日には900m以上歩いてはダメ、生死に関係しない患者を治療したらダメ、料理もダメ、といったものでした。そうした「口伝律法」を守ることができるのはたいてい裕福な人々だけで、生活に余裕のない貧しい人々は細かい規定まで守ることはできませんでした。そして、口伝律法に違反すると、律法を守らない呪われた者と断罪されたのです。

(2)イエスは、そのような人びとを前にして、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります(マタイの福音書9:36)。そのような状況で、イエスは、神の与えた法律以上に厳しい重荷から解放してあげますよ、と言われたのです。

(3)イエスが使った「わたしのくびきを負いなさい」という言葉は、当時のユダヤ教のラビ(律法の教師)がよく使っていたもので、「わたしの学校に入りなさい」という意味です。イエスのもとに来て、イエスから学べば、たましいに平安が与えられるという約束です。それは、ただの休息でなく、人生を切り開く力にもなる平安です。

(4)この言葉は、当時のユダヤ人だけでなく、「すべての疲れた人、重荷を負っている人」に向けられています。つまり、人間関係の疲れ、経済的な不安、職場でのプレッシャー、過去の過ちに対する罪責感など、さまざまな重荷を負って現代を生きている私たちにも差し出されているのです。

自分に起きている様々な問題は、実はひとつの問題を解決するだけで自然に良くなったりします。その問題とは、創造主である神を無視して、心が宙ぶらりんなことではないでしょうか。あなたを心から愛して、受け入れてくださる神様に、一度すべての問題をゆだねてみませんか。

中川 洋

この記事の執筆者

ハーベスト・タイムU.S.A.

中川 洋