死後の中間状態について(M様よりご質問)
沢山のメッセージ動画の配信を、ありがとうございます。
さて、私の通う教会は残念ながら置換神学。艱難期中期携挙説に立っております。また、先日の講演会にお招きした講師の方は、なんと無千年王国説。携挙は無いというお考えに立っておられる方でした。講演会のテーマは、「死後の中間状態」についてでした。その内容に私は疑問を感じ、同じテーマについて、ハーベスト・タイムのメッセージや本を探しましたが見つけることができませんでしたので、今回質問させていただきました。
次の1~5は、講演会で語られたことです。
1. 人は死ぬと墓に葬られ土に帰る。死ぬことは「よみ」に下ることで、意識は無く、眠ること。「よみ」とは死者が眠る世界のことである(先祖と共に眠る、墓に葬られ、「よみに下る」など、聖書のことばから)。
2. エノク、エリヤに関する記述や、伝道者の書などを読むと、天国に行くような箇所もあるが、解釈が別れる。
3. 死んだ魂は天国に行くという考えは、旧約後のヘレニズム時代、ゾロアスター教の二元論が、近東やギリシャに入り、その影響を受けたためである。もともとの旧約時代の考えには無い。
4. 死後魂が天国へ行くように思われる新約の箇所(ルカ16:22、ルカ23:43、第2コリント5:8)があるが、解釈がいろいろあり確定できない。
5. 黙示録に出て来る白い衣を着た聖徒たちが、天上にいるように書かれているが、黙示録は黙示文学といってイメージ言語で書かれているので、パウロやペテロが言っていないことは、そのまま受け取らない方がよい。
以上のことから、聖書を文字通り読むと、旧約新約一貫して死後のたましいは、「よみ」で意識がない状態で眠っていて、復活の時を待っていると教えている、ということでした。
しかし私には、やはりハーベスト・タイムで学んだ、旧約時代はシェオール、ハデスは二つの領域でできており、パラダイス、アブラハムのふところの部分は、キリストの昇天によって天に上げられている、意識のある世界だと受け取っております。
上記の1~5に関する矛盾点などを、総体的に教えていただけると嬉しいです(講演会を批判するためでなく、自分が確信を持てるためです)。特に、眠っているのではなく、意識がある状態であることについて、教えていただけると嬉しいです。
M様
簡単に回答します。根本的な問題は、どういう解釈法を用いているかという点です。私は字義どおりの解釈にこだわっています。その結果産まれてくるのが、ディスペンセーション主義という神学体系です。字義どおりの解釈に対抗するものとして、比喩的解釈や、字義どおりの解釈と比喩的解釈の折衷型などがあります。各論的に論じるよりも、説教者が採用している解釈法を吟味することが大切です。
1. 人は死ぬと墓に葬られ土に帰る。死ぬことは「よみ」に下ることで、意識は無く、眠ること。「よみ」とは死者が眠る世界のことである(先祖と共に眠る、墓に葬られ、「よみに下る」など、聖書のことばから)。
―― この講師の方は、ヘブル的表現についての知識がない人だと思います。「先祖と共に眠る」や「自分に民に加えられる」などの表現は、死というよりも、死後のいのちに強調点があります。死後、先祖の仲間に加えられたというのは、死後も生きているという意味です。「眠る」は、肉体的死の婉曲語です。魂の眠りのことではありません。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです」(1テサ4:13)。この聖句の「眠っている」も同じ意味です。肉体の死の比喩的表現であり、魂の眠りを指しているのではありません(2コリ5:8、ピリ1:23、1テサ5:10など参照)。
2. エノク、エリヤに関する記述や、伝道者の書などを読むと、天国に行くような箇所もあるが、解釈が別れる。
―― 解釈が分かれるのは当然です。異なった解釈法を用いるからです。問うべきは、「あなたの解釈法は?」ということです。
3. 死んだ魂は天国に行くという考えは、旧約後のヘレニズム時代、ゾロアスター教の二元論が、近東やギリシャに入り、その影響を受けたためである。もともとの旧約時代の考えには無い。
―― これはひどい嘘です。創世記の時代から、死んだ魂は天国(神のみもと)に行くという信仰がありました。ヘブ11:13~16にアブラハムの信仰の解説があります。
4. 死後魂が天国へ行くように思われる新約の箇所(ルカ16:22、ルカ23:43、第2コリント5:8)があるが、解釈がいろいろあり確定できない。
―― 再度言いますが、解釈の確定は、解釈法の確定と連動しています。「あなたの解釈法は?」というのが問うべき質問です。
5. 黙示録に出て来る白い衣を着た聖徒たちが、天上にいるように書かれているが、黙示録は黙示文学といってイメージ言語で書かれているので、パウロやペテロが言っていないことは、そのまま受け取らない方がよい。
―― 黙示文学ということばが、解釈が不可能だという理由づけに利用されています。黙示文学も、字義どおりの解釈で読むべきです。意味は鮮明です。
答えた人:牧師 中川健一