雄大な自然を目の前にして、畏敬の念を感じたことはありますか?聖書には「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」という一節があります。聖書と科学は対立する存在なのか、科学を信じることと神を信じることはどう違うのか、一つずつ丁寧に考えてみましょう。
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#47. 聖書と科学は矛盾していませんか。
Q. 質問
今のような科学的な時代に、神が存在するとは到底信じられません。科学を信じていれば、おのずと神を信じなくなってきませんか。聖書と科学は矛盾していませんか。
A. 回答
すぐに思い出すのが、「天動説」と「地動説」の論争です。この論争は、「聖書と科学が矛盾している」ということを証明するものではありません。これは、聖書のメッセージを誤解した結果、間違ったことを主張してしまったという事例です。さあ、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、科学は、究極的な問いに答えることができません。
これは、最先端の哲学者たちが、もうすでに何度も繰り返し言っていることです。例えば、「神が存在するか、しないか」、あるいは、「人はなぜ生きているのか」、「人はどこから来てどこへ行こうとしているのか」などが究極的な質問ですが、これらの問いに科学は答えることができないのです。まず、このことを押さえておきましょう。
2番目に、もし神が存在しないなら、聖書と科学は矛盾したものになります。
科学の方法論というのは、およそこういうことです。自然界の現象を観察する。そして、情報の整理と分析を行う。それを基に、仮説を立て検証を行い、公理、定理へと導いていく。この定理が、また新しい情報と矛盾するならば再びこのサイクルを繰り返す。つまり、科学というのは「客観的真理を探究しようとする営み」のことです(科学が、客観的真理に到達し得るかどうかということは、また別のテーマです)。ですから、もし神が存在しないなら、神が存在すると教える聖書は、科学と矛盾したものになります。
しかし3番目に、もし神が存在するなら、聖書と科学は矛盾しません。
クリスチャンの科学者は、どういう思いで科学的営みをしているのでしょうか。彼らは、「科学は、神が創造した被造世界を探究する試みである」と考えているはずです。ということは、「科学は神を礼拝する1つの方法でもある」ということです。
科学を信じることと、神を信じることの間には、大きな差があります。科学を信じるということは、「不完全な人間の判断や、不完全な人間の頭脳を信じる」ということです。それに対して、神を信じるということは、「完全なお方がおられ、その方に信頼を置く」ということです。
結論を言いますと、科学を通して神の被造世界を学び、神を礼拝することも可能だということです。詩編の19章1節にこのようなことばがあります。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)
あなたも、聖書を通して「まことの神」に出会われますように。
参考になる聖句
「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ人への手紙1:19〜20)
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それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです(ローマ1:19〜20)