イスラエルの祭りの持つ意味を知ると、聖書と神様のご計画の確かさや、今自分が信仰を持っていることの素晴らしさが再確認できて素晴らしい恵みがありますよね!かと言って、ユダヤ教の祭りをクリスチャンが祝うことは必要なのか? 逆にもう祝っちゃダメなんじゃ?などの不安も。そんなモヤモヤがすっきりするご質問です。
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Q. 質問
Q:クリスチャンの立場から、ユダヤ教の祭りを祝うとはどういうことでしょうか。また、それはして良いことなのでしょうか。
A. 回答
A:よい質問をしてくださり、ありがとうございます。レビ記23章には、イスラエルの民が祝うべき7つの祭りが記録されています。春の祭りが4つ、秋の祭りが3つありますが、特に有名なのは過越の祭り、五旬節の祭り、仮庵の祭りです。このテーマについて、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、レビ記23章の祭りは、契約の民イスラエルに与えられた命令です。
神が7つの祭りをイスラエルに与えた理由は、3つあります。①歴史を回顧し、神の恵みに感謝するためです。例えば、過越の祭りは出エジプトの出来事を記念するための祭りです。②約束の地に定住するようになった際に、毎年の収穫を神に感謝するためです。これらの祭りは、基本的には農業祭です。③メシアの生涯を予表するためです。7つの祭りは、メシアの初臨から再臨に至るまでの出来事を予表しています。イスラエルの民が7つの祭りを祝うのは、特権であり、義務です。
2番目に、メシアニックジューたちも7つの祭りを祝っています。
メシアニックジューたちが祭りを祝う動機は、それがモーセの律法による命令だからではなく、ユダヤ民族の習慣であり、伝統だからです。救いを得るために祭りを祝おうとするなら、その動機は間違っています。メシアニックジューたちは、イエスを信じる者として、一般のユダヤ人たちとは異なった方法でこれらの祭りを祝っています。つまり、ユダヤ教の口伝律法によって継承されてきた形式ではなく、イエス・キリストを中心に据えた新しい形式で祝うということです。過越の祭りの際に使用する式文をハガダーと言いますが、メシアニックジューが制作したキリスト中心のハガダーがいくつかあります。キリスト中心にイスラエルの祭りを祝うのは、本来の意図に合致したことです。
3番目に、クリスチャンが7つの祭りを祝うかどうかは、その人の自由です。
つまり、このテーマは各人の良心に照らして判断すべきものだということです。祝うべきだと感じる人は、祝えばよいのです。そう思わない人は、祝わなくてもよいのです。大事なのは、自分と意見を異にする人を批判しないことです。イスラエルの祭りを祝っても、救いを得たり聖化の助けになったりすることはありませんが、イエス・キリストというお方について深く理解するという意味では、益があります。
参考になる聖句
「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。 」 (第一コリント 5:8)
クリスチャンがイスラエルの祭りを祝うかどうかは、良心に照らして判断すべき問題です。
もっと詳しく知りたい方は
Q.198 今の時代に適用すべき箇所をどうすれば知ることができますか。
今回のご質問の意味がわからないという方も多かったのではないかと思います。
新約聖書の中の登場人物(ユダヤ人)たちは、当然ながら全員ユダヤ教徒でした。旧約聖書で予告されていたメシアはキリストであり、メシアはすでに到来したと信じるかどうかを境目に、今ではキリスト教 と呼ばれる信仰になるわけです。
キリストの再臨により、旧約聖書で規定されていた様々な条件がキリストによって満たされ、律法からも解放されました。
なのですが、新約聖書の時代の人々はユダヤ教の文化を前提として暮らしていて「キリストを信じたユダヤ教徒」たちがどう振る舞うかは、大変重要なトピックでした。▼参考資料は以下の通りです。
ヘブル人への手紙(1)—ヘブル人への手紙のテーマ—(玄人クリスチャン向けです)
▼ユダヤ教の祭りの持つ意味とキリストの関係についてざっくり学ぶならこのメッセージがオススメです。
続・福音の奥義に生きる(1)―的を外したユダヤ教(易しい解説です)
▼なんで途中からルールが変わるの?というところが疑問な方はこちら