今回のご質問は「クリスチャンの姉妹が宝クジを買ってもいいと言っています。そして、もし当たったら、困っている人に施しができると。私はこの行為には賛成できません。」という方からです。聖書には、宝クジに関する明確な教えはないため、聖書が教える「富に関する一般原則」から宝くじについて考えてみます。
テキストで読む
Q. 質問
Q:クリスチャンの姉妹が宝クジを買ってもいいと言っています。そして、もし当たったら、困っている人に施しができると。私はこの行為には賛成できません。神様が喜ばれる事ではないことを確信しているからです。しかし姉妹を納得させることばが見当たりません。聖書には宝クジも飲酒もしてはいけないとは書かれていないと姉妹は言いますが。
A. 回答
A:宝クジに関しては、いろいろな考え方があると思います。私の考え方を分かち合いますので、参考になさってください。いつものように、3つ申し上げます。
1番目に、聖書には宝クジに関する明確な教えはありません。
十字架刑の場面では、兵士たちがクジを引いてイエスの着物を分けています。これが、今回の質問に最も近い事例だと思います。「クジを引いて着物を分ける」というのは、実際に起こったことの記録であって、そうしなさいという勧めではありません。むしろ、文脈上この行為は、否定的なニュアンスを持っています。
聖書に宝クジに関する教えがないとするなら、聖書が教える「富に関する一般原則」を適用するしか方法はありません。
2番目に、聖書は、勤勉な労働の結果として富を得るように教えています。
勤勉な労働の結果として得た富は、神から与えられたものです。短時間に裕福になる方法は、聖書が推奨するものではありません。なぜなら、そこには貪欲という動機がからんでくるからです。聖書は明確に、神と富の両方に仕えることはできないと教えています。
3番目に、宝クジをどう評価するかは、いわゆるグレーゾーンの問題だと思います。
宝クジを買うことが、必ずしも罪ではない場合があるかもしれません。それゆえ、各人が相手の考え方を尊重しつつ、自分なりの意見を持つべきです。判断する際には、以下のような点を考慮しましょう。
①宝クジは、定義的には「ギャンブル」の一種です。偶然の結果を求めて、価値あるものを犠牲にするなら、それはギャンブルです。
②宝クジを買う場合の動機が問われます。もし短時間の内に豊かになりたいと願っているのであれば、それは貪欲という罪です。
③宝クジを買うことが信仰から出ていないなら、それは罪です。
参考になる聖句
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(1テモ6:10)
宝クジに関しては、相手の考え方を尊重しつつ、自分なりの意見を持つべきです。
もっと詳しく知りたい方は
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました(第一テモテ6:10)