レシピ8 「コーチング」の法則

イエスの教授法

前章「質問力」の法則では、イエスの教授法について触れました。
イエスは弟子たちに対して、また論敵に対して、たびたび質問を投げかけています。これは、ユダヤ教のラビたちが伝統的に採用していた教授法で、質問を投げかけることによって相手に「気づき」を与え、正しい答に導こうとするものです。イエスが弟子たちを訓練した方法は、まさに対話と質問によるオンザジョブ・トレーニングだったと言えるでしょう。

そして今、ラビ的教授法と同じ方法がビジネスの世界でも注目を浴びるようになってきました。その兆候が見え始めたのは、1980年代の米国においてでした。
それまでは、トップダウン方式の経営がビジネス界で主流を占めていましたが、そろそろその限界が露呈し始めていました。部下に絶対服従を命じただけでは、業績が拡大しないのです。
大企業の経営者たちは、伝統的な経営手法が機能しなくなっている現実に苦悩し始めました。どうしたら会社を大きくすることができるのか。悩める経営者たちが着目したのは、スポーツ選手の育成法でした。つまり彼らは、「スポーツコーチング」の手法からヒントを得たのです。

プロのテニスコーチ、ガルウェイの手法

1970年代に米国で活躍したテニスコーチのティモシー・ガルウェイは、1974年に画期的な本を著わしました。それが、『インナーゲーム(The Inner Game of Tennis)』です。
彼が書いたのは、テニスのレッスン書ではなく、テニスというゲームを材料にして、いかにして「勝つ心」を養うかを論じた実践理論の本でした。その中で彼は、「教える」よりは「問いかけて気づかせる」方が効果的であると主張しました。例えば、「ボールをよく見ろ」と教える代わりに、「ネットを越える瞬間、ボールの回転はどうなっている?」と質問すると、選手は無意識の内にボールをよく見るようになるのです。これは、別の見方でものを見ることを教えることによって、選手のやる気と興味を引き出すという方法です。
ガルウェイの影響を受けて、スポーツ界には新しいコーチングの方法が広まっていきました。そしてついに、ビジネス界でもその手法を採用するようになったのです。つまり経営者の間に、社員の「気づき」にもっと目を向けようという運動が広がっていったということです。

効果的な人材育成法

スポーツ界やビジネス界だけでなく、この手法はあらゆる局面において効果を発揮します。人を育てる能力を持っているということは、非常な強みであり魅力です。では、どのようにすれば効果的な人材育成が可能になるのでしょうか。

育成下手な人ほど、教えたがりだということを理解しましょう。
つまり、教えれば教えるほど、人材育成からは遠のいていくということです。コーチングの根底にあるのは、相手が自力で目標を達成することができるように支援する、ということです。何から何まで教えてしまうと、相手は自分の頭で考えることをしなくなります。その結果、新しい発見をしたり、危機管理能力を養ったりすることができなくなるのです。これは、カウンセリングの場でも言えることです。クライアントはカウンセラーに依存しようとします。もしカウンセラーがクライアントに代わって決断をしたり、選び取ったりするなら、その人はカウンセラーとしては失格です。クライアントを自立させることこそカウンセリングの主要な目的です。

育成上手な人は、一から十まで教えようとはしません。むしろ、質問を繰り返すことで、相手に問題点を見つけさせています。自分で見つけた問題点なら、喜んでそれを克服しようと努力するようになります。また、不測の事態に対応できる能力を身につけるようになります。これからの社会が必要としているのは、言われたことだけを行うマニュアル人間ではなく、自己判断のできる人材です。

一人一人の個性に応じて、個別の対応をする必要があります。
「人を見て法を説け」という格言があります。これは釈迦が用いた教授法であると言われています。広辞苑の解説では、「相手にふさわしい働きかけをすることのたとえ」とあります。実はこれは、バイブルに記されたイエスの方法でもあります。イエスは相手によって質問を変えています。

育成上手な人は、人によって質問の内容や出し方を変えています。育成する立場にある人は、どういう質問をすると相手は問題点に気づき、その解決を考えるようになるのかを、常に自問自答していなければなりません。叱り方ひとつにしても、この視点が必要です。皆の前で叱られても大丈夫な人もいれば、人目に隠れたところで叱らねばならない人もいます。人とは、思ったよりも「壊れやすい」ものなのです。

即効性を期待してはなりません。

人材育成には、忍耐心が必要です。前章では、高校3年生の時に交換留学生として米国に渡り、現地の高校で一年間学んだということを書きました。高校生活の最初は、カルチャーショックの連続でした。驚いたことはいくつもありましたが、その中でも、先生が生徒を一人前の大人として扱おうとしていることには、びっくりしました。
その頃の会話を思い出すと、「あなたはどう思うか」、「あなたはどうしたいのか」、「それはあなた次第である」といったやり取りがほとんどだったように感じます。日本で「上意下達」の教育しか受けてこなかった私は、このような会話に当初は大いに戸惑いを感じ、慣れるのに時間がかかりました。しかし、若い頃に異文化に触れる体験ができたことを大変感謝しています。この体験があったので、自分の頭で考える習慣が多少ともついたように思います。

高校に専属のカウンセラーがいたことも新鮮でした。ある時私は、カウンセラーに相談に行きました。当時私はクラブ活動でレスリング部に入っていました(体重別の競技ですので、ハンディがないと判断したからです)。ところが、クラブ活動と勉強とを両立させるのが難しくなってきました。私の場合は、英語のハンディがあったので、他の生徒の二倍は勉強しないと付いていけない状態でした。悩んだ末に、カウンセラーに相談に行ったのです。私は、「君はこうしなさい」という指示があることを期待して行ったのですが、カウンセラーは私の話を黙って聞いているだけで、指示らしきことは何も言いませんでした。最後まで「それで、君はどうしたいと思っているのか」という質問に終始し、時間切れとなりました。その後も数回会いましたが、毎回、「君はどうしたいのか」という質問を受けました。
この体験を通して、私は重要な教訓を学びました。それは、自分の人生は自分で選び取らねばならないということです。結局私は、時間のやりくりを工夫することによって、クラブ活動と勉強とを両立させる方法を選び取りました。この場合、自分の意思でそれを選び取ったという点が貴重なのです。

このカウンセラーは、人材育成には時間がかかることを知っていたのだと思います。忍耐深く私の悩みを聞いてくれたカウンセラーに感謝しました。彼は、私の歩みのスピードに付き合ってくれたのです。
人を育てようとする場合、即効性を期待したり、急いだりしてはなりません。イエスが弟子たちを訓練した方法を見ても、忍耐と継続とがその中心にあることが分かります。イエスは、自分が人類の罪のために十字架にかかって死のうとしていることを、何度も弟子たちに教えようとしています。しかし、弟子たちは最後まで、イエスのその教えの意味を理解することができませんでした。彼らが「イエスの十字架上の死」の意味を理解したのは、イエスが復活して以降のことでした。

自分もまた良きコーチを必要としていることを認めましょう。

自分のことは自分では分からないものです。いつも教えているばかりで、師と呼べる人を持っていない人は不幸です。意識して教わる立場に自分を置く努力をする人は、傲慢という罠から自分を救い出すことになります。そのためには、陣営の外に出て他分野の人たちと交流する必要があります。お山の大将になってはならないのです。

良きコーチとなってくれる人を探しましょう。師と呼べる人を求めましょう。率直に質問を投げかけ合える仲間を作りましょう。
また、自分がコーチングしてあげられる人を見つけて、その人のために時間とエネルギーを投資しましょう。人材育成に携わることは、間違いなく自分の成長につながります。

この章のポイント

1. 教え過ぎは、人材育成の障害となる。
2. 「問いかけて気づかせる」ことを、人材育成の目標とせよ。
3. 自分のためにも良きコーチを見つけよう。