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わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

紀元85〜90年

使徒ヨハネ

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13〜14)

futsukayoi私が初めて自分から教会に行こうと思った日のことです。前の夜に飲みすぎました。ひどい二日酔いで、まる一日苦しんで、やっと夕方になって空腹を覚え、学生食堂に行きました。のどがひりひりと痛むほどの渇きを覚えながら、食堂に入ると、そこに同級の友人がいました。彼の顔を見たとたん、私はのどが渇いているだけではなく、自分の心が渇ききっているのだとわかりました。

その友人とは大学に入ったときから気が合う仲で、彼は空手部、私は町道場で居合道をしていて、ともに硬派を自認する学生生活でした(本当は女子学生から全く見向きもしてもらえなかっただけなのですが)。そんな彼が急に頭を丸めました。どうしたのだと聞くと、クリスチャンになった、もう武術はしない、頭を丸めて部にはわびを入れて辞めた、というのです。私は内心がっかりしました。「禅ならばともかく、よりによって外国の宗教に凝るとは。イエス様が身代わりで死んでくださったなんて、なんと女々しいことを言うのだろう。こいつ、こんなに弱いやつだったのか・・・」と。

しかし、破綻していったのは私でした。大学の講義も、道場の稽古も、何をしてもむなしく、心はからっぽでした。しだいに飲酒に向かうことが多くなりました。この日も前の晩に痛飲し、二日酔いでぼうっとした顔で学生食堂に行ったら、久しぶりに彼に会ったというわけです。彼の顔が輝いて見えました。むなしさや迷いのない、確信と平安に満ちた顔でした。私は、自分が単に仮面をつけて強がっているだけ、内実はからっぽの哀れな者だとはっきりとわかりました。そして、私は思わず、彼に「頼む。教会に連れて行ってくれ。おまえの信じる神について、聖書について教えてくれ。」と頼んでいました。

それから数か月後に、私は洗礼を受けました。以来、信仰生活に紆余曲折はありますが、信じる前に経験したあの恐ろしい空虚感、渇きは二度と来ません。

イエスが与えてくださる水とは、何でしょうか。イエスの霊、神の霊である聖霊です(ヨハネ7:37〜39)。イエスを信じる者には、信じたそのときに聖霊様がその人のうちに宿ってくださいます。これは私たちの内側である霊魂の領域で起きます。ただし、私たちの知性・感情・意志よりももっと奥深いところで起こることですから、かならずしも自覚を伴うものではありません。しかし、確実にその人の生き方を変えます。聖霊が、友人の顔を輝かせていたのです。聖霊が、私の渇きを完全に癒してくださったのです。

あなたも渇くことのない水を飲まれますよう、お祈りします。

(*編集部注:文中でお友達は決意の現れとして頭をまるめ、武術をお辞めになっていますが、クリスチャンになったらそうしなければいけないということではありませんので、念のため。)

清水 誠一

この記事の執筆者

清水 誠一

熊本聖書フォーラム代表

清水 誠一

1955年生まれ。静岡県出身。
1981年熊本大院卒。
税理士事務所、日本IBMに勤務ののち、1995年より熊本市に在住、現職は会社役員。
20代で右翼思想から転向して、米国バプテスト教会宣教師より受洗。
30代でペンテコステ系神学に傾倒するも挫折、ガン病棟を経験。
40代は仕事に没頭、家庭崩壊と離婚の危機。
50代で聖書を読み直す。
2013年より熊本聖書フォーラム開始、現在に至る。
2014年7月ハーベスト聖書塾卒。