ファッションとして、一般的にも人気のクロスネックレス。かつて死刑の道具だったはずの十字架が、今や愛・赦し・守りなどの象徴になっているとは、驚きの逆転現象ですね。さて今回は「アクセサリーとしての十字架」を通して、自分の心のあり方を見つめてみましょう。
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#48. 十字架をアクセサリーとして身に付けるのは、問題ありますか。
Q. 質問
最近プロテスタントの教会に通い始めた者です。アクセサリーとして、シンプルな十字架のネックレスを付けています。今現在、さまざまなファッションに十字架は取り入れられていますが、普段から十字架を身に着けているというのは、問題がありますでしょうか。
A. 回答
クリスチャンでなくても、十字架をアクセサリーにしている人はたくさんおられます。このテーマについて考えることは、自分の信仰を吟味するよい機会となります。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、十字架をアクセサリーにするかどうかは、各人が自分で決めるべき問題です。
十字架というのは、ご存知の通り、元々は死刑の道具でした。ですから、時々「十字架を付けるというのは、胸に電気いすやギロチンをぶら下げているようなものだ」というような言い方をするわけです。しかし、この言い方は50点です。半分は当たっていますが、半分は間違っています。その理由は、クリスチャンが十字架を身に付け始めたのは、十字架刑が廃止されて以降の話だからです。その時代には、十字架の意味がもう変わっていたわけです。ですから、死刑の道具をぶら下げているわけではないのです。十字架は、愛、赦し、守りなどを象徴するシンボルとなりました。
以上のような背景がありますので、十字架は自分で判断して付ければいいのです。十字架を付けない人は、付けている人を見ても批判すべきではありません。
しかし2番目に、十字架をアクセサリーにすることが問題となる場合があります。
どういう場合なのでしょうか。
1つは、「自分の外見がどう見えているか」にしか関心がない場合です。つまり、格好いいかどうか、そればかりを気にしている場合です。その人は、外見だけに心を奪われ、心の在り方に関心が向いていないわけです。
次に問題なのは、十字架が偶像になる場合です。例えば、十字架を崇拝するような心理状態になっている場合は、危険です。さらに、「十字架を付けていれば何をしても事故には遭わない」とか、「車の前に十字架を付けていれば無謀運転したって大丈夫だよ」といった意識もまた問題です。
3番目に、十字架をアクセサリーとすることが賞賛に値する場合があります。
それは、キリストの「犠牲的な愛」を確認するために十字架を付けている場合です。あるいは、自らの心を吟味し、「神様に従順に歩むこと」を再確認している場合です。さらに、キリストの愛に生きる決心をし、隣人に愛を示そうとする場合です。
結論としては、自分の内面を顧みながら十字架を身に付けるなら、それはよいことだと言えます。
参考になる聖句
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(ペテロの手紙第一2:24)
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネの福音書13:34)
もっと詳しく知りたい方は
ローマ人への手紙(52)―教会内の調和を求めて(2)― (ロマ14:5〜12)(アウトラインPDF)
▲教会内に、いろいろな決まり事がありますか?本当に守るべき事柄と、個人が判断すればよい事とは。