信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
紀元64〜68年
ヘブル書の著者(不明)
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1〜3)
同志社大学の創立者・新島襄(1843~90年)は二十歳のとき、初めて漢訳聖書と出会いました。
「元始(はじめ)に神天地を創造(つく)りたまえり」という最初の一句を見て、彼は考え込みました。「なるほど、この世界のあらゆるものは、これを造った神さまがいなくてはできないはずだ。机は大工が作ったものだが、その大工が用いた材木は決して人間が造ったものではない。すると、この書物にあるとおり、この世には真の神さまというものがいて、この天地万物を造り、ご支配しておられるにちがいない」
納得した彼は、見えないが、天地創造者である神を信じたのです。
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新島襄は、聖書の言葉を事実として受け取り、信じました。それは理知的な決断であり、やみくもな盲目的信仰ではありませんでした。
この聖書箇所に出てくる「望んでいる事がら」とか、「目に見えないもの」というのは、人間的な願望や主観的な観測のことではありません。それは、神が約束し、啓示されたものです。信仰とは、神が約束された客観的事実を、事実として受け取ることです。約束されていないことを信じるのは、狂信です。約束されているのに信じないことは、不信仰です。約束されたことを額面どおりに受け取るのが、信仰です。
信仰の一例として、ヘブル書の著者は天地創造の事実を挙げています。天地創造の現場に立ち会った人はだれもいません。しかし、クリスチャンたちはこの世界が神のことばによって創造されたことを信じています。なぜでしょうか。それは、神のことばがそう宣言しているからであり、私たちがそのことばを信仰をもって受け止めたからです。
ここで「昔の人」と言われている旧約時代の信仰者たちは、神の約束を事実として受け取った人々です。ノアは、まだ洪水の兆しもない時に、神の言葉に従って箱舟を造りました。アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けという神の声を聞き、まだ見てもいない地へ旅立ちました。
神の言葉である聖書を離れては、信仰は成り立ちません。神が約束されたことを額面どおりに受け取ることが信仰です。
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