今日の聖書の言葉

レシピ1 「甘柿と渋柿」の法則

人生は手紙

私たちの人生はいわば手紙のようなものです。
周りの人たちは、私たちとの日常の会話や接触を通して、あたかも手紙でも読むかのように、私たちがどういう人間であるかを観察し、値踏みし、判断を下しています。そうなのです。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは日々、周りの人たちの観察の目にさらされているのです。
その観察は、多くの場合瞬時に、しかも感覚的になされます。その好例が、第一印象と呼ばれるものです。そこで下された判断は長期にわたって保持され、容易に変更されることはありません。そう考えると、日々の生きる姿勢が正されるではありませんか。
「私は、回りの人々にとってどのような手紙になっているのだろうか」
「人々は、私の人生からどういうメッセージを受け取っているのだろうか」
そのように自問自答する習慣を養うのは、素晴らしいことです。

しかし、好印象を与えようとして「人生を演じる」のは、危険なことです。また「へつらい」によって相手のご機嫌を取ることも、愚かなことです。もしあなたが、自分は世渡り上手だと思っているなら、直ちにそのような考えは捨てるべきです。洞察力のある人の前に出たなら、表面的なつくろいなどすぐに見破られてしまいます。人生というゲームで勝利したいと思うなら、変化球ではなく直球で勝負せねばなりません。

世の中には、第一印象が良くても、付き合っていくうちにその印象ががらりと変わる人がいます。その逆に、第一印象が悪くても、次第に好印象に変化する人もいます。これらのことから、長期にわたって周囲の人たちを欺き続けるのは不可能だということが分かります。メッキは、いつか剥がれるものです。メッキが剥がれると、人間関係が壊れ、お互いに傷ついたまま別の新しい人間関係を求めて旅立つことになります。数年サイクルで、このようなことを繰り返している人もいます。なんと虚しいことでしょうか。

メッキが剥れないためにはどうすればいいのでしょうか。答えは簡単です。最初からメッキを施さなければよいのです。つまり、内も外も同じ資質を持つ人間になるように努力するということです。
私たちは、心にあることを言葉や行動を通して外に出します。つまり、内側の資質がいつかは見える形で外側に現われてくるということです。いくらごまかしても、こればかりはどうすることもできません。だから、内側を整える必要があるのです。
柿の木を思い出してください。ある木には渋柿がなり、ある木には甘柿がなります。似たような木なのに、なぜ結果がかくも異なるのでしょうか。その理由は、木が持っている性質にあります。渋柿の性質を持っている木には渋柿が、甘柿の性質を持っている木には甘柿がなるのです。
私たちの人生もこれと同じで、心の中に好ましくない性質があれば外に出てくるのは好ましくない行為です。それとは逆に、心の中に好ましい性質があれば、外に出てくるのは好ましい行為です。

実によって見分ける

バイブルには、次のような言葉が記されています。

「あなたがたは、実によって彼ら(偽預言者)を見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません」

この言葉はイエスが語ったものですが、まさに「渋柿と甘柿」の法則そのものです。
イエスが活動した時代、イスラエルには偽預言者や偽教師が横行していました。彼らは、いわばバイブルの専門家たちです。特に有名なのは、パリサイ人と呼ばれる律法学者たちです。その中には高潔な学者もいるにはいましたが、大半が「言行不一致の人」でした。今でも英語で「パリサイ的」と言えば「偽善的」という意味になります。
バイブルの専門家たちにとっては、無学で素朴な庶民を複雑な法律論で縛り、思いのままに動かすことなど朝飯前のことでした。そういう状況の中で、イエスは複雑な法律論争を避けて、本物と偽物とを見分ける実に単純な方法を弟子たちに教えたわけです。「人の本質はその実によって見分けることができる」というのが、その方法です。単純ですが、これほど的を射た方法はないでしょう。
バイブルが常に問題にするのは、「外面」ではなく「内面」であり、「虚飾」ではなく「実質」です。永続性のある成功を手に入れたいと思うなら、小手先を磨くのではなく、常に自らの立ち位置を検証すべきです。

イエスはこうも語っています。

「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」

「目のみえぬパリサイ人たち」とは、心の目が閉ざされていたパリサイ人たちへの呼びかけの言葉です。

2種類の失敗

人が犯す失敗には、2種類のものがあります。
ひとつは、うっかりして、あるいは未熟さのゆえに犯す失敗です。もうひとつは、人格的な欠点が原因となって犯す失敗です。
世間は、前者の失敗には比較的寛容です。「次から注意するように」とか、「君は発展途上人だから」といった理由で、許してもらえることが多いのです。しかし、後者の失敗の場合は、そうはいきません。動機が汚れているために犯した失敗には、弁解の余地はありません。人格に関わる失敗は、信用を無くすという手痛い結果を招くことになります。いったん内側の汚れや邪悪さが露呈すると、信用回復はほぼ不可能になります。それゆえ、人生の成功者になりたいと思うなら、自らの内面を磨く努力をする必要があるのです。

再度言いますが、いつまでも人の目をごまかせるなどと、決して思ってはなりません。
悪い種を蒔けば、悪い実を刈り取ることになります。真の成功者になりたいと思うなら、根本的な自己改造が必要です。つまり、渋柿の性質を取り除き、甘柿の性質を育てるということです。内面にどのような特質を育てているかで、その人の生き方、価値観、人間関係が決まってきます。内側から改造し、外側に向かっていくという流れを決して忘れてはなりません。

物質的豊かさと幸福感

内側の改造と深く関係しているのが、「人生における優先順位」の問題です。特に、物質的な豊かさにどの程度の価値を置いているかで、その人の人生観が大きく左右されます。
先ほど出てきた『箴言』の中には、こういう言葉もあります。個人的には、大変気に入っている言葉です。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。 貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主(神)とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」

これを書いた人は、貧しい生活がいかに苦しいものであるかを熟知していました。極貧は、高潔な人の人格さえもねじ曲げるものです。金銭の価値を無視したり軽視したりする態度は、決してほめられたものではありません。と同時に、この人は金銭を追い求める生活の愚かさにも目を留めていました。裕福になると、傲慢という罠が待っています。そうならないように、この人は、過不足のない中庸の人生を歩ませてくださいと願っているのです。

物質的豊かさと幸福感の関係について、興味深い調査結果が報告されています。これは、物質的豊かさと幸福感とは比例するかどうかを米国で調べたものですが、日本でもこれと同じようなことが言えるのではないでしょうか。
米国人の生活水準は、第二次世界大戦以降大きく改善されましたが、自分のことを幸せだと感じている人の数はさほど増加していないという調査結果を、『US・ニューズ・アンド・ワールドレポート』誌が発表しています(2001年9月3日号)。

この雑誌は、その原因を次のように分析しています。

「一旦収入が必需品を購買できる水準に達すれば、それ以上収入が増えても、人々の幸福感は変化しない。知能、名声、日当たりの良い環境などに関しても、同じことが言える。人々は、良い気候、高い給与、より良い車などにすぐに慣れっこになってしまうのだ。
…研究者たちは、自尊心、霊性、家族、そしてよい結婚や友情などが、幸福な生活の鍵であることを発見している。また、希望、人生の意味、正しいゴールを発見しそれを追求することなども、幸福への鍵である。他の人たちが幸せになれるように奉仕することも、人間関係を強化し、希望を更新し、幸福感を向上させることに役立つ。他の人が善行を行なっているのを見るだけで、見ている人の心は温まり、自分も同じような善行を行ないたいという気にさせられる。
感謝の心を持つことも、幸福な生活のためには欠かせないことである。感謝することを習慣にしている人たちは、そうでない人たちよりも健康で、ストレスも少なく、より楽観的で、他の人を助ける可能性も高い…」

物質的豊かさと幸福感とが比例しないことは、バイブルがすでに2000年前から予見し、教えていたことです。
イエスは、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と迫ってきた悪魔に対して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と答えています。「石をパンにする」とは、人として守るべき道を忘れ、私利私欲にまい進する生き方を象徴しています。それでは本当の意味で生きていることにはならないのです。肉体的に存在していても、魂は死んだも同然だからです。

ここで、自問自答してみましょう。
1. 私は、金銭、地位、名声といった外面的な結果だけを求めて生きていなかっただろうか?
2. 私は、自分が根本的な自己改造を必要としていることを認めているだろうか?
3. 私は、内面の豊かさを何よりも重視しているだろうか?
 
よい根と幹を持つ木はよい実を結びますが、苦い根と幹を持つ木は苦い実をつけます。これが自然法則です。この法則は、そのまま私たちの人生にも当てはまります。

 

この章のポイント

1. 人生を演じてはならない。
2. 内面から改造し、外側に向かっていく流れを重視せよ。
3. 物質的豊かさと幸福感とは、比例しないことを心に留めよ。