ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

紀元前10世紀のイスラエル

ソロモン王

ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書 12:7)

人は皆、人生の中で、自分は死んだらどうなるのだろうか、と考えたことがあるのではないでしょうか。恐らく多くの方々が、死んだらおしまい、無の世界に入る、と考えていると思います。

私は、17歳の頃にこの死の問題を何度も考えて、死んだら後には何も残らない、死は自分の力ではどうにもできないという切なさをぬぐえなかったことを思い出します。その頃、両親はまだそれほど老いてはいなかったけれども、いずれは亡くなってこの世での別れが必ず来る。そして、自身にも死はやって来る。今は、いろいろなことを考えたり、喜びや悲しみを感じたりできるが、死とともに全てが無に帰するはずだ。肉体が滅びれば、脳も機能しなくなり、死とともに、何もできなくなる。死は恐ろしい。死にたくない。しかし、死は必ず訪れる。

この思いはその後もひとりになって静まっていると、たびたび私を襲いました。何度も何度も繰り返し襲うのです。しかし、後に、不思議な形でこの問題の解決が与えられました。

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サラリーマンだった私は死の恐怖を仕事の忙しさにかまけて忘れる時もありましたが、解決しませんでした。しかし、40歳を少し過ぎた頃に、ある教会に導かれ、聖書を読みたいという強い思いが沸き、一年ほどの間に二度繰り返して読み続けました。理解できないところも多々ありましたが、頭に入ったことは、最初の人アダムが神によってちりから造られ、エデンで永遠に生きることになっていたが、神が命じたことに背いて死ぬようになり、以後すべての人類が死ぬ運命になったことでした。さらに、人間には肉体と霊魂があって、私たちが死ぬと言っているのは「肉体の死」であること、しかし神は人の霊魂までが滅んでしまうことを望まれず、救いの道を備えてくださったことが聖書に書かれてありました。

そして、聖書の神は、人間が作り出した神ではなく、永遠の昔から存在する唯一の神様であり、そのひとり子イエス・キリストが、神であるのに、ユダヤ人の人間として二千年前にこの世に生まれ、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死に、三日後に復活されたことを知りました。聖書には、このことを信じた者は、アダム以来受け継がれてきた原罪が赦されて、永遠のいのちが与えられると書いてありました。死を逃れるために、修行を積んだり、善行をしても意味がない。ただ、この救いの道(福音)を信じるだけで、人の霊は永遠に滅びないことがわかったのです。それ以来、二十数年にわたって私を襲い続けた死に対する恐怖は消えました。伝道者の書12:7にある通り、肉体を構成する「ちり」は地に帰り、「霊」はこれをくださった神に帰るのです。

しかし、神に帰る「霊」には二通りの行き先があると聖書は言っています。ひとつは「パラダイス(天国)」であり、もう一つは「ハデスと呼ばれる、熱い暗闇」です。信仰を持った人間は「パラダイス」に行きますが、そうでない人は「暗闇」に向かいます。「パラダイス」は、約二千年前に、イエス様が復活して昇天された時に天に引き上げられましたが、それ以前は「ハデス」と同じところにありました。聖書は「パラダイス」のことを比喩的に「アブラハムのふところ」と書いています。次の聖書の箇所は、「パラダイス」と「ハデス」がどんなところかを知る意味で興味深い聖句です。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:19〜31)

この項の最初のところに書いた通り、これはイエス様が復活して昇天される前の話です。ラザロは信仰を持っていたので「アブラハムのふところ」という「パラダイス」に行きました。一方の金持ちは地上のことに心を奪われていて信仰を持たないままで死んだので「ハデスと呼ばれる熱い暗闇」に行ったのです。この時は、「パラダイス」と「ハデス」は同じ場所にあったのですが、「ハデス」から「パラダイス」へは移ることができないと聖書には書いてあります。とても重要なことは、地上生涯を生きている間に、福音を「信じるか」、「信じないか」で、死んだ後の行き先が決まってしまい、その後では、「パラダイス」に行きたいと思っても行けないということです。「信じるか」、「信じないか」の決断は、生きている間に行う神に対する応答であり、人間の側の責任です。「信じます」という真心からの神への応答で、その人の行き先は良い方向に決まるのです。 そして、聖書(二番目の参照聖句)によると、良い方向に行った人は、肉体のからだに代えて、永遠の「朽ちないからだ」が与えられると書かれています。

岩崎 洋二

この記事の執筆者

岩崎 洋二

杉並聖書フォーラム代表

岩崎 洋二

1944年生まれ。神奈川県出身。
1967年 東京工大卒。39年のサラリーマン生活を送り、米国に9年、南米に4年海外駐在をする。
1986年 福音を信じてクリスチャンとなる。
2012年より杉並聖書フォーラム開始、現在に至る。
2014年 7月ハーベスト聖書塾卒。

もっと詳しく知りたい方は

人生の謎を解く(1)―人はどこから来たのか―


次の聖句は私自身がクリスチャンになった時に読んだ箇所です。
ここで書いたことがよく理解できます。

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです
▲福音を信じた直後に「神様、仰せの通りです」と何度も読み返した聖句です。

私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです
▲「パラダイス」に行くこととは具体的にどのようなことなのだろうか、という疑問から目についた聖書の箇所がこちら。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は…
▲クリスチャンになってから今日に至るまで、常に希望を与えられた聖句です。


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信じた後こそ大事なバイブルスタディ
岩崎氏が神を信じるようになってから、さらにクリスチャンとして成長するまでのお話。教会には行っているけど、何となくモヤモヤ・・・という方には特に、お勧めです。