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今日の聖書の言葉

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

紀元30年頃のイスラエル

イエス・キリスト

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

この聖句は、最後の晩餐において、イスカリオテのユダがその場所を去った後、イエスが残った弟子たちに、これから起こる出来事(贖罪の死、復活、昇天、再臨)のことを教えている箇所です。

私たちが罪人として滅びゆくのではなく、永遠の命を授かるためには、イエス・キリストの十字架を受け入れること以外に道がないということを教えています。

日本人なら、真理に至る道はいろいろあって良い?

私がこの聖句を初めて聞いたのは、2007年2月のことです。得度*、五重相伝(浄土宗の修行)まで受け、熱心な仏教徒であった当時の私は、お付き合いで行った教会で「真理に到達するには、この道しかないのだ」というメッセージに非常に腹立たしさを覚えました。

*得度(とくど)僧侶入門の儀式のこと

何故なら、多くの日本人の精神構造である和の精神に根差して、私は、確かに真理は一つではあるが、それに至る道は、いろいろあっていいんだと考えていたからです。そこでクリスチャンである彼らを論破するために聖書を学び始めたのですが、と同時に、仏教では死後の世界に対する教えが2つあることに気が付きました。

それは、南無阿弥陀仏と称えるだけで、死んだら極楽浄土に行くという教えと、この世における業によって、天国道、人間道、修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道と、六道輪廻する教えです。ここでいう極楽浄土と天国は同じ場所ではありません。

仏教が教える死後の世界(クリックで拡大) 仏教が教える死後の世界(クリックで拡大)

この矛盾に気がついた私は、そもそも仏教の創始者である釈迦は、死後の世界をどのように教えていたのかと調べました。すると、すぐに「毒矢の譬え」をいう例話に行きついたのです。それはこのような話です。

釈迦の死生観

当時、インドでは、バラモン教、ジャイナ教、ヒンズー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、ギリシア神話など、様々な宗教が興り、それぞれが死後の世界のことを伝えていました。ある日、釈迦の弟子の一人、マールキナブッダが、釈迦に「人はどこから来て、どこへ行くのか?宇宙の始まりは何か?」などという質問をしました。その時、釈迦は次のように答えたのです。

『お前の大切な友人が、ある日、毒矢に射られたとしよう。そうすると、その場に居合わせたお前はどうする?当然、毒矢を抜いて助けようとするだろう。しかし、その時に、お前の友人がこう言うのだ。
「待て!何故、私が狙われなくてはならないのだ。射った奴は誰だ。この毒は何の毒だ。この羽は、何から出来ているのだ? がちょうか、カラスか、鶏か…そのような疑問が全て明らかにされないうちに、この毒矢を抜いて欲しくないのだ。」と。

さて、友人はどうなる?死んでしまうだろう。
お前は今、生きているのだ。生きていることで、目の前に解決しなければならない問題は一杯あるのだ。
だから、死んだらどうなるのか?などということは、考えなくても良いのだ。捉われることなく、修行に励みなさい。』です。

つまり、釈迦は、形而上学的な問題には一切答えなかったし、そもそも輪廻転生や、死後の世界を否定していました。故に、根本仏教は哲学であったことに気が付くのです。
哲学的思考では、まことの神を知ることは出来ません。何故なら、のちの釈迦の弟子たちがそうしたように、人が神や仏を作るからです。人が作った神や仏が、人を救えるはずがありません。むしろ逆で、まことの創造主である神が、釈迦をも含めて人を創造したのです。故に、まことの神だけが、人を救うことができるのです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

今は、心からこの聖句にアーメンと言うことができます。

永山 太

この記事の執筆者

恵比寿聖書フォーラム代表

永山 太

有限会社NEXUS(ネクサス)代表取締役 社員教育研修 講師

1961年 奈良県にて生まれる 1986年 IBU四天王寺国際仏教大学 教育学科卒 2000年 得度・五重相伝 仏弟子となる 2007年 とある教会での論争をきっかけに聖書研究を始める 2008年 受洗 2011年 按手

大手旅行代理店入社後、健康食品会社、NPO団体を経て現在に。 元仏教徒のクリスチャンとして、聖書的世界観をベースとした、営業研修、 コミュニケーションセミナー、実践PDCA研修、イスラエル聖地旅行ガイド、 比較文化宗教セミナーなどを手がけている。

もっと詳しく知りたい方は


この箇所は、有名な最後の晩餐の途中で弟子達に向けて語られました。最後の晩餐がどのようなものだったか解説されているメッセージはこちら

マタイの福音書(マタイ26章 前半) (アウトライン)